二 真綿の針
#01
朝、周吾郎が食卓へ向かうと、妹の麻里が不満げに頬を膨らませていた。
「てっきり、前よりおっきな百貨店ができると思ってたのに」
朝からどうしたと聞いた兄に対して、麻里はそう答えた。
周吾郎はテレビを見る。巷で人気の美人リポーターが、眼鏡をかけたスーツ姿の壮年男性――支配人と呼ぶのにぴったりな男にインタビューを続けていた。地元ではおなじみのローカルニュース番組だ。テロップには「鶴見市総合美術館 創設の歩み」の文字。麻里は百貨店の話をして、ぶつくさ文句を垂れている。周吾郎は得心すると同時にささやかな笑みを浮かべた。
「普段からニュースを見ていないからだよ。前から結構話題になってただろう」
「知らないよーそんなの。帰り道で友だちと、何ができるんだろうねーって話してたのがバッカみたい。あーあ楽しみがひとつ減っちゃった」
「それはよくない。人生はいつだってエンターテイメントで満たされているべきだ。そんな麻里におすすめのコンテンツがあるんだけど」
「どうせ刑事のオジサンたちが出てくるサスペンスでしょ? お兄ちゃんいっつもそれなんだから。オジサン趣味ならゲイバーにでも行ってきたら」
なぜ我が妹はここまで不躾なのか――と考えているところで、朝のニュースは新しくできる美術館の話からスタジオのコーナーへ戻ってきた。途端、憂鬱にいじけていた麻里がかっと息を吹き返し、「待ってました」と再びテレビにかじりついた。何ごとかと見ると、テレビでは若い男性アナウンサーの担当する特集がはじまっていた。「マス目が見た! 鶴見市の新ジョーシキ」というコーナーで、升慎太郎という人気のアナウンサーが街頭で流行のものについて突撃取材をしているようだった。周吾郎もよく見ているコーナーで、升の天然ボケがなかなかに面白いのだ。
「ちとさんのコーナー好きなんだぁ」
「ちとさん?」
麻里の言葉に首をかしげたのは、めずらしく朝食に同席している、父の宗一郎だった。遅出ということでワイシャツ姿ではない。こういうときぐらいしか家族が揃う機会はないから――と、宗一郎はこの時間を大切にしていた。が……
「この人は、マスさんというんじゃないのか」
「あーわかってないねお父さん。まあ、頭が固いから仕方ないかな」
「なにっ……」
娘から試すような視線を向けられた宗一郎は、新聞の空きスペースに「升慎太郎」と書いてみる。漢字だけではなく、ひらがな、カタカナ。そこに並べるようにして「ちとさん」と付け加えて、ペンを置く。それじゃダメだ――と周吾郎は思う。宗一郎は新聞紙を矯めつ眇めつ眺めてみるが、眉間に皺は深く寄ったままで、深く思案しているようだった。太陽の光に透かしてもみるが、解決したようには見えない。周吾郎も麻里も見慣れた姿だ。悩ましげな父の姿に、息子が思わずふふっと笑いをこぼしたのを、宗一郎は聞き逃さない。
「周吾郎。お前はわかったのか」
「当然だよ。こんなの、子どもだましみたいなものじゃないか」
「むっ……むう……」
「ほらほらー、がんばって本部長殿ー」
「わからん……さっぱりわからん……」
宗一郎は何かとつけて、息子と娘とコミュニケーションをとりたがる。
話をするうちに最近の若者文化に触れて、如何ともしがたい表情を浮かべるのがお決まりだったが、こうして簡単な謎かけが意図せずはじまることもあった。先週はSNSでの流行語。その前は人気芸能人の略語を麻里が多用して宗一郎を困らせていた。そのたびに宗一郎は一般的な父親から仕事の顔に引きずり戻され、納得いく答えが出せないまま、我が子との朝食を終えてばかりだった。まあこれも一種のコミュニケーションだろう――と周吾郎はほくそ笑む。
「もうこんな時間だ。そろそろ準備するよ、ごちそうさま」
「じゃあ私もそろそろ行くね。朝練あるし」
「なっ」
狐につままれたような顔をする宗一郎。ニュース番組ももう終わる頃だった。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。せめて答えを……」
「その必要はないよ、父さんなら大丈夫さ」
周吾郎は言ってのける。
「いつだって、謎は解けるようにできているんだからね」
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