#03

「気晴らしに、寄り道でもしませんか」

 日の長くなってきた帰り道、そう誘ったのは春瑚だった。周吾郎はショーウインドウに映った自分の情けない顔を見て、素直に誘いに乗ることにした。ここのところ頭を使う機会が多かったのは嬉しくもあったが、多少疲れていたのも事実だ。周吾郎が承諾すると、春瑚は陽気な足取りでショッピングモールへと向かった。

 アトリ鶴見――鶴見市の根幹を成す商業施設で、競合していた百貨店がなくなってからは鶴見市の若者が集う人気スポットと化している。窓際のエレベーターから見下ろす街並みはなかなかに壮観だ。春瑚は目をきらきらに輝かせている。

「私、こういうところってあんまり来たことないんです」

「なんとも意外だね。どうして?」

「……うーん、よく覚えていません。家の手伝いで休日もひとりだったり、放課後遊びに行くってことをあまりしなかったからだと思いますが」

 少し悩んだが、表情はすぐにぱあっと明るくなった。

「でも、そのうち思い出すと思います」

 春瑚らしいと思った。不意に春瑚が周吾郎の目の前に躍り出て、たたっとローファーで足下を打ち鳴らす。

「兄と美優さんも、こんな感じで出かけていたんでしょうか」

「……そう、かもしれないね」

 周吾郎は一瞬、言葉に詰まった。自分が言っていることの意味をわかっているのか、それともわかっていないのか――。

 少し聞いてみたい思いになったが、その前に春瑚はエレベーターを下りた先でぴっと店の看板を指さしていた。店名を見ると『たまご喫茶』。名前の通りたまごを取り扱っている喫茶店のようだが、あまり人気はない。春瑚の目の輝きは更に増していた。

「周吾郎さん」

 主張は言わずともわかる。周吾郎は晩ごはんを控えた身だ。少食ではないがここで食事でもしようものなら確実に影響をきたす。なら食べなければいい話だが――なるほどメニュー表に記載されているたまごクロワッサンはいかにも美味しそうだった。深呼吸をして、周吾郎はささやかな抵抗を試みる。

「……もしも僕が、たまごアレルギーだと言ったら?」

「私がぜんぶ食べてあげます」

 打つ手がなかった。


     ***


「このクロワッサン、コーヒーの味がします」

 春瑚はたまごクロワッサンを味わい深く食みながらも、怪訝な様子だった。メニューにクコーヒーを使用している記述はなかったはずだ。コーヒーが苦手な人もいるだろうし、そのあたりは配慮していると信じたい。

「喫茶店で出している料理だし、作っているうちにコーヒーの匂いが染みつくのは珍しくないんじゃないかな」

「そういうものなんでしょうか」

「僕は美味しければなんでもいいと思うよ」

「その通りです。美味しいです。食べられて本当に良かったです」

 もぐもぐと食べ進める春瑚。お菓子を作るよりも食べるほうが好きとは言っていたが、すでにクロワッサンをふたつ平らげているのにこの余裕ぶりだ。小さな身体のどこにそんなスペースがあるのか――と思っていたところで、目が合った。

「でも、おかしな店員さんでしたね」

 周吾郎は肯く。

 実は初め、『今日は機械が壊れたからたまご系の料理は出せないんです』と壮年の男性店長が言っていたのだ。春瑚はしょんぼりとわかりやすく落ち込んでいたが、そこへ颯爽と現れた恰幅の良い女性店員は笑顔で言った。『大丈夫ですよ。時間はかかりますが、少々お待ちください』と。事実、たしかに時間はかかったものの、こうして無事たまごクロワッサンは春瑚の胃袋に吸い込まれている。今、ちょうど三個目がなくなったところだ。

「はあ、とても美味しかったです」

「それはそれは」

 満足げに息を深く吐き出したところで、春瑚はすっと表情を切り替えた。

「でも、おかしな店員さんでしたね」

「リピートするほど気になってたの?」

「だって、最初は機械が壊れているから出せないと言っていたんですよ。それなのに後から来た女性の方は大丈夫だって、その通りに出てきて……とっても不思議です」

「おや、嬢ちゃんもそう思うかい」

 ごく自然に会話に入り込んできたのは、食後のコーヒーを持ってきた店長だった。程よく白髪が混ざった短髪で、薬指には『KEI』の文字が彫られた指輪をはめている。店長がカウンターでうんうんと唸っているのは先ほどから横目で見えていた。

「恵のやつ、どうやってゆで卵を作ったのか私にもわからないんだよ」

 周吾郎は訊く。

「見たところ、奥さんですよね? 教えてもらえないんでしょうか」

「ああ、うん。聞いたんだけどね。恵は『秘密は女を女にする』って言っちゃって、なんとも得意げなんだ」

「調理はすべて、奥さんが?」

「そうだよ。私は大体接客とカウンター周りで忙しいから、厨房のことは妻に任せているんだ。だからゆで卵を作った現場は見てなかった。でもコンロは壊れているし、それ以上の設備は大してないから、どうやって作ったのか気になってね」

「わかりますわかります。一体どうやってゆで卵を……」

 周吾郎は心ここにあらずという調子で、晩ごはんに思いを馳せていた。料理当番は麻里だったはずだが、今日は中間考査の結果が帰ってくる日だと聞いていた。麻里の場合は結果の良し悪しで夕食の内容が様変わりする。寿司の出前をとるか、闇鍋ができあがっているか。周吾郎にできるのは前者であってくれと願うことだけだった。

「周吾郎さん、これは事件です」

 合い言葉のように春瑚が言った。目を逸らし気味にしていた周吾郎の目の前に、春瑚がずずいっと身を乗り出してくる。

 もう一度深呼吸をして、周吾郎はささやかな抵抗を実行する。

「……実は僕、たまごアレルギーなんだ」

「それは大変です。一刻も早く、謎を解決しましょう!」

 手を打っても、結果は変わらなかった。

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