#08

「でも、よく私が湊川の卒業生だってわかったね。誰にも言ってなかったのに」

 伊勢谷が手にしていたのは、当時の卒業文集だった。

 周吾郎は「キヨシ」の正体が伊勢谷である可能性が高いと目星をつけ、昨日のうちに伊勢谷を訪ねた。あだ名のことは話題に出さなかったが、伊勢谷が湊川の卒業生であることはすぐに明かしてくれた。周吾郎はそれ以上ほとんど話をせずに「明日、当時の卒業文集を持ってきてほしい」とだけ告げた。こうして第二の目的である卒業文集の入手には成功したこととなる。

 文集は革張りで、表紙には丁寧に描かれたイラストがどっしりと構えている。当時の美術部が描いたのかもしれない。周吾郎は鼓動が速くなるのを感じながら、文集のページをめくっていく。

 目当ての箇所はすぐに見つかった。当時の湊新報を中表紙にして、一年間の出来事を月ごとに振り返っていくコーナーが湊川の卒業文集にはある。周吾郎は九月分の湊新報を見つけた。夏休みに開催されたフリーマーケットや野球部の甲子園結果について訥々と書かれているだけで、興味を引く事柄はない。ページをめくると、生徒会選挙、体育祭といった九月の行事を写真で残したものがちりばめられている。文集というが、卒業アルバムも兼ねているらしい。写真がいくつか続いて、今度は一〇月の湊新報が現れて――という構成だ。一〇月の湊新報には、生徒会選挙が稀に見る大接戦だったことが大々的に書かれている。ページを戻ってみても、増刊号が収められている気配はなかった。読み手を山崎や春瑚に譲ってみても、めぼしい発見はないようだった。山崎がううんと唸る。

「どうやら、九月と一〇月の間に増刊号があったということはなさそうね」

「ですね。隅々まで目を通しましたが、やはり掲載は認められませんでした」

「となると、あのメッセージの正体は……」

 二人が思案する横でぽかんとしている伊勢谷を眺めながら、周吾郎は考える。

 増刊号の類いがあるとは露ほども思っていなかった。他の年度のバックナンバーに目を通せばすぐにわかることだ。となればメッセージが挟まれていた箇所は本来なら詰めるべき部分で無駄なスペースと言える。そんなものを作ってまで伴汐美がメッセージを残したとなると、やはり、湊新報の九月号と一〇月号に挟まれている――ということに意味がある。そうでなければ、単にメッセージを残したいのなら、最後のページに添えておくだけでも良かったはずだ。

 湊新報は月初に発行される。周吾郎は九月の行事に目を通した。生徒会選挙に、全生徒による奉仕活動、体育祭、中間考査。それらを念頭に置いた上で、メッセージが伝えたかったことを思い出す。

 伴汐美は、椎原――もとい伊勢谷奏子に感謝していた。伊勢谷がいなければ自由は得られなかったのかもしれなかったからだ。読み替えるなら、伊勢谷がいたからこそ、自由を得ることができて、伴はそれに感謝した。しかしその感謝は直接果たされることなく、メッセージとして残されていった。メッセージに本名は記載されていない。

 それはもしかしたら――他人に知られたくなかったことかもしれない。

「えっと、みんなは一体なにを……?」

「ああ、実はですね」

 山崎が事のあらましを話そうとしたところで、周吾郎は声を上げた。

「先生。先生はまだ、高校生のときのことを覚えていますか?」

「高校生の? うーん、どうかしら。結構経っているからなあ……具体的に何のこととかはある? 修学旅行とか、文化祭とか」

 思い出話をしてほしいと勘違いしているようで、伊勢谷はにこにこと愛想の良い笑みを浮かべていた。そのあたりに興味がないわけではなかったが、鉄は熱いうちに打てという。周吾郎は単刀直入に切り出した。

「でしたら、について、なにか覚えていることはありませんか?」

「生徒会……?」

 首を傾げる伊勢谷に、周吾郎は一〇月号の湊新報を指で示す。

「ほら、ここ。この年の生徒会選挙――先生が三年生のときのそれは、史上稀に見る大接戦だったとのことで、盛り上がりようが凄かったようです。文章を読むだけでも熱気が伝わってきます。それだけ盛大な選挙だったでしょうから、なにか覚えてはいないかと」

「生徒会選挙、ねえ……。さあ、あまり覚えていないわ」

 伊勢谷の目がかすかに愁いを帯びたが――山崎が矢継ぎ早に訊いた。

「あ、じゃあ卒業式とかどうですか? なんかこう、ぱーっと開放的な気分になることがあったとか」

「それはもちろんあったわ。みんな就職したり、大学進学したりで離ればなれになっちゃう寂しさもあったけど、それ以上に高校三年間を終えた達成感で満ち満ちていてね。男子なんかは胴上げなんかしていたかもしれないわね。あとは第二ボタンを巡った争いなんかも勃発していてね……」

「あー、えっと……そうなんですね。な、なるほど~」

 どうやら山崎は「自由」という部分を突き止めようと婉曲的に訊いてみているようだったが、核心に迫るようなできごとはなく、それどころか昔話に花が咲いて止まらなくなっている伊勢谷に辟易しているようでもあった。

 ひとしきり話したあと、今度は春瑚が質問をぶつけてみたが、伊勢谷はにこやかに話すだけで実りはなかった。気づけばかなりの時間が過ぎていて、伊勢谷が修学旅行の迷子事件を話しているところで下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。こうなると生徒はみな強制的に帰らなければならない。

「あらやだ、もうこんな時間なの。ふふ、いろいろ思い出話ができて楽しかったわ」

「そ、そうですか……それは良かったです」

 山崎がちらりと視線を寄越したが、周吾郎はさっぱりといった調子で肩をすくめた。校舎内に生徒はほとんどいない。たしかに伊勢谷はいろいろな話をしてくれたが、収穫はゼロと言ってよかった。

 名残惜しそうにしながら山崎は先に帰り、春瑚も家の用事があると言って帰って行った。それが嘘なのは周吾郎だけが知っている。かたや周吾郎は「新聞部を占拠してしまったお詫び」と言って、部室の鍵を返すのを買って出た。返却先は職員室なので伊勢谷も同伴し、新聞部ということで柚希も後ろに付き添った。

 窓の外はすっかり夕暮れだ。秋の日はつるべ落としというが、春も同じくらいの日の長さということはあまり実感しない。夏に向けて段々と日が長くなるから感じにくいことなのかもしれない。薄っすらと寒気を感じ、周吾郎は身体を震わせる。

 職員室も教員は少なかった。周吾郎たちが入ったときはまだ何人かの教師が残っていたが、鍵を所定の場所に掛け、少しだけ世間話をしていると、すぐに誰もいなくなった。教師は残って仕事をするイメージがあったが、そうでもないのだな――と周吾郎は気まぐれに考えた。

「さ、職員室の鍵も閉めなきゃね。あまり寄り道せず帰るのよ」

「ええ、もちろんです」と周吾郎は嘘をついた。

 職員室を辞して、蛍光灯がぼんやりと光る廊下に、三人だけが立っていた。鍵を閉める音が鮮明に響く。職員用の昇降口と生徒用の昇降口は真逆の方向にあるので、伊勢谷とはここで別れることになる。

「じゃ、また明日ね」

 伊勢谷は最後にもう一度笑顔をつくると、背を向けて歩き出した。周吾郎はポケットの中の感触をたしかめると――唇を少しだけ舐めて、口を開いた。

「先生」

 伊勢谷が立ち止まって、振り返る。

「どうしたの? 橘くん」

「先生は――」

 周吾郎は少しだけ、息を呑んだ。

「本当に、なにも覚えてないんでしょうか」

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