#07(了)
すっかり日は暮れて、街には夜の帳が下りていた。こんな時間まで外にいるのはいつぶりでしょうか――と春瑚は言った。
「そういえば、店長さんがありがとうと言っていましたよ」
「……店長?」
「もう忘れちゃったんですか。『たまごカフェ』の店長さんです」
曰く、周吾郎の推理は合っていたとのことだった。
店長の奥さんである恵さんは、コンロもなしにどうやってゆで卵を作ったのか――バックヤードのコーヒードリッパーがあるのだとすれば、それを利用する他ない。お湯を利用して、時間をかけてコーヒーを抽出するドリッパーの仕組みを利用すれば、同じく時間をかける必要があるゆで卵も応用して作ることができるだろう。周吾郎はそう推理したのだが、どうやらピシャリだったらしい。
「妻が褒めてくれたーって、店長さん喜ばれてましたよ。ぜひまた遊びにおいでだそうです。割引券までもらっちゃいました。はいこれ、周吾郎さんの分です」
「え? いや、僕は……」
小さな割引券をむんずと無理矢理握らされる。たまごクロワッサンが五〇円引きになるささやかなものだった。周吾郎の表情は晴れやかでない。
「僕は、大したことなんて……そもそも、実際に推理したのは店長さんじゃないか」
「でも、きっかけを与えたのは周吾郎さんです。店長さん、まさかドリッパーを使うなんて考えもしなかったって、とても感心していらっしゃいましたよ。たしかに周吾郎さんはちょっとヒントを出しただけかもしれませんが、謎を解決へと導いたのはたしかです」
「…………」
不思議な感覚だった。手の中にあるオレンジ色の割引券に、温かみさえ感じるような気がした。
もちろん頭のなかで推理はした。ドリッパーを使ってゆで卵を作ったのだと最後まで論ずる準備もできていた。ただ、周吾郎はキーワードだけ残していくにとどめた。結果的に店長はドリッパーをヒントに答えまでたどり着いたのだろう。だとしたら、真に賞賛されるべきは店長ではないのだろうか? それなのに感謝されるのは不思議な気分だった。不思議ではあるが、悪い心地はしなかった。
「先ほどは不躾な真似をして、すみませんでした」
唐突に、春瑚が頭を下げる。
「どうしたんだい、藪から棒に」
「……まさか、周吾郎さんがお母さんを亡くしていただなんて、露も知らずに、私はあんな無礼な推理を……。傷ついてしまっていたら、私、悔やんでも悔やみきれません」
「ああ、そういうことか。大丈夫だよ。もう乗り越えた壁だから」
六月も間近だというのに湿気の少ない、乾いた風が涼やかに吹いていた。もうすぐやってくる梅雨の前の静けさかもしれない。雨が降っていなくて良かったと思った。
「もともと母は身体が悪くてね。自宅療養が続いていたんだけど、僕が犯人を逆上させたばっかりに、逆恨みされて、実家が放火の被害に遭った。母は大火傷を負って、数日のうちに逝ってしまったんだ。当時はめちゃくちゃに泣いたものだったけど、今は何というか、達観してしまった感じかな……」
二年半ほど前、周吾郎が中学一年生で迎えた冬。鶴見市では連続放火事件が発生していて、街は厳戒態勢だった。宗一郎をはじめとした警察の面々は犯人検挙に手こずっていたが、周吾郎は数少ない証拠から犯人を推理して、放火をやめさせようと説得にかかったのだが、それが仇となり、結果として橘一家の住宅が放火の被害に遭ってしまった。ボロ家に引っ越したのはその後のことだ。放火事件のことは春瑚も覚えているようだった。
「犯人を突き止めたのが、まさか周吾郎さんだったなんて」
「茅島の協力あってこそだったんだけどね。それで犯人を追い詰めたまでは良かったんだけど、説得のために言い放った言葉が良くなかった」
「……何と、言ったんでしょうか」
「こんなことはもうやめろ、って」
歩行者用信号が赤になって、立ち止まる。
「僕の言葉を聞いて、犯人は『お前に何がわかる』と激昂して、逃げてしまった。あと少しで自首させられていたものを僕は台無しにしたうえに、自分たちの家まで失うことになってしまったんだ。凄く辛かったけど、そのときの経験が橘一家をより強くしたとも僕は考えてる。でも、やっぱり反省すべき点は多かった」
横に立つ春瑚を見る。
「橘という苗字は珍しいから目星がつけられたと、小日向さんは言っていたね」
「はい。少なくとも、鶴見市内ではあまり聞いたことがありません」
「僕も同じ考えだ。もし今後も同じようなことがあったときに、橘と名乗ると身元が知れる恐れがある。だから僕のことを呼んでもらうときは、基本的に『周吾郎』と呼ぶようにお願いすることにした」
「あ……」
名前で呼んでもらうということには、父の宗一郎との約束にも通ずるところがある。警察本部長の息子であるなど、知られないほうが平穏無事に済むに決まっているのだ。
「あれ以来、推理は控えめにするつもりだったんだけどね。でもやっぱり、小日向さんの持っている謎は魅力的すぎた。徐々に昔の姿に戻りつつあるのを感じながらも、なかなか歯止めが利かなかった。鮮やかな謎で日常が染まっていくのが嬉しかった」
「周吾郎さん……」
「だからこれ以上はやめたほうがいいと思った。また同じことの繰り返しになると第六感が警鐘を鳴らしていた。それでも僕がこうして改めて謎に立ち向かおうとしているのは、たぶん小日向さんのおかげだ」
「私の、ですか?」
周吾郎は肯く。
「逃げ込んだ真っ暗な屋上で、小日向さんにかけてもらった言葉で、何かが変わったような感覚があったんだ。具体的に言葉にするとなると、今はまだ難しいんだけど……」
ふと、周吾郎は気になったことを訊いてみた。
「そういえばあのとき、どうして屋上に? 鍵はかかっていたはずなのに」
「ああ! あれはですね。実は昔、兄と――――」
信号が青に変わって、また歩きはじめた、刹那。隣の気配が遠くなるのを感じて、周吾郎は振り返る。
見ると、春瑚は狐につままれたような顔をして、歩道に立ち尽くしていた。何か思うところがあったのか――周吾郎は歩み寄る。
「小日向さん、どうか……」
「ああ、ああ、思い出しました」
呆然としていた春瑚の双眸が少しずつ生気を取り戻して、やがて夜空のように輝きはじめると、目の前に立っていた周吾郎の腕を掴んで――
「来てください、周吾郎さん!」
今度は春瑚が、脱兎のごとく走りはじめた。
周吾郎の動揺に構わず、春瑚は小さな手で周吾郎の腕をぐっと握り、人混みを、歩道橋を、目抜き通りを強く強く駆け抜ける。周吾郎というと、先ほど全力で走りすぎたせいで、必死でついて行くのが精一杯だった。数分ほどひた走って、ようやく信号で立ち止まったところで、周吾郎は肩で息をしながら問いかける
「こっ、小日向さん、いきなり、どこへ……思い出したって、何を?」
「同じことがあったんです」
春瑚は顔を上気させながら、真剣な眼差しを道路を挟んだ反対側に向けていた。春瑚からすれば、さっきの周吾郎がこんな様子だったのかもしれない。
「周吾郎さん」
春瑚は言う。
「兄の手紙の、後半部分。場所に関する記述の答えがわかりました」
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