#09

「覚えていない……? ああ、生徒会選挙のこと? うん、覚えてないかなあ」

「そうなんですね。ああ、さっきお話しするのを忘れていたんですが、実は僕たち、新聞部で妙なメッセージを見つけたんです。僕は山崎先輩に依頼されて、そのメッセージの謎を解くためにいろいろ考えていました。先生の卒業文集をお借りしたのも、それが理由です」

「なるほど、そういうことだったのね。それで、メッセージっていうのは?」

「これです」

 周吾郎はポケットから、件のメモを取り出す。いつの間に――と柚希が驚いているのを余所に、周吾郎はたった二文のそれを、ゆったりと読み上げてみせた。

「メッセージの中身はこうです。『キヨシに感謝する。彼女がいなければ、この自由は得られなかったのかもしれないのだから。シタ』。これはシタさんというひとがキヨシさんに感謝の意を表したものですね」

「…………」

「失礼ながら、先ほど先生の卒業文集の寄せ書きも見させていただきました」

 伊勢谷の顔が驚きの色を帯びる。周吾郎はさらに続けた。

「思い思いの言葉が綴られていましたが……そのなかにこんなものがありました。『キヨシ、三年間ありがとう。あなたならきっと大丈夫だから、自信を持って。伴汐美』。この伴さんという方は、伊勢谷先生のことを『キヨシ』と読んでいたそうです。それが先生の昔の名字のことだと気づくには、少し時間がかかりました。よく見れば、伴さんの名前の汐という字は『シタ』と読むこともできそうです。……自分の推理の答え合わせのつもりでしたが、寄せ書きを見たことで、僕の不安は確信に変わりました。このメッセージは、伴さんが伊勢谷先生に残したものであると、ある程度断定することができたのです。

 では、先ほどのメッセージが伴さんから先生へのものだったとして、『自由』とは何なのか。なぜ伴さんは、伊勢谷先生に感謝したのか。

 実はこのメッセージ、過去の湊新報をあつめたバインダーに挟まれていたんです。それも、本来新聞を収めるべきところをまるっと入れ替わる形で、この小さなメモ用紙だけが不格好に仕舞われていました。前後は当時の湊新報の九月号と一〇月号。間に号外はありません。であれば詰めておけばいいのに、メッセージは間にあることを強調するように残されています。伴さんの意図を完全に汲み取ることは難しいと思いますが、僕はこの行為を次のように解釈しました。

『このメッセージにおいて伝えたいことは、九月と一〇月の間に起こったある事件に対する感謝の意である』――と」

 息を呑む音が聞こえた。伊勢谷か、周吾郎なのかはわからなかった。

 いつの間にか隣に立っていた柚希が、怪訝か、それとも真意を察したかで、周吾郎のことを眉をひそめて見つめている。問い詰めているような感覚がして、少し罪悪感にも襲われたが、周吾郎は言葉を止めなかった。

「湊新報は月初に発行されるので、九月の間に起こったできごとに焦点を当てるのが良さそうです。九月の学校行事は、生徒会選挙、奉仕活動、体育祭、中間考査。このなかでメッセージが示すキーワードの『自由』に関係がありそうなものといえば……中間考査かもしれません。試験が終われば自由になる思いはあると思います。でも、試験が終われば生徒はみんな自由になるわけですから、メッセージに書かれた『彼女がいなければ自由は得られなかった』という文脈にはそぐわないように思えます。奉仕活動はいわゆるボランティアですから、自由とは無縁そうです。体育祭もあまりピンと来ません。そうすると残るのは、生徒会選挙のみということになります。

 では、生徒会選挙における『自由』とは何か。

 任期を終えて一般生徒に戻るという意味では、生徒会役員にとって生徒会選挙は自由が保障されるイベントです。生徒会の座を次世代に引き継ぐわけですからね。ですが、この『任期を終える』というのも中間考査と同じく訪れて然るべき自由です。選挙が行われる以上、生徒会長が二期にわたって会長を務めるといったことは考えられません。衆議院や大統領選挙ならまだしも、ここは公立高校です。一年の任期を終えたなら、役目はそこで終わりでしょう。だからここでも『彼女がいなければ自由を得られなかった』という文章の意図を解決することはできません」

「さすがね橘くん」

 伊勢谷はぱちぱちと拍手した。話を遮るようでもあった。

「やっぱりあなたは謎解きに関しては天才的ね。合格者名簿のときもそうだったけど、きみは他の生徒と一線を画しているように思えるわ」

「ありがとうございます。でも、ここまでは普通に考えただけでもたどりつけそうな結論です。僕の結論はここからです。生徒会選挙について、僕はもうひとつの『自由』を考えました」

 伊勢谷は、なにかに怯えるような強張った表情から、普段通りの温和な笑顔に戻っていた。合格者名簿紛失事件のように挙動不審な様子もない。安心しているというように見えるが――周吾郎は伊勢谷の態度を「諦観」であると判断した。

「先ほども言ったように、生徒会選挙は生徒会の座を次世代に引き継ぐ儀式です。新しい生徒会長を決めるイベントでもあるのですから、演説などで盛り上がることも容易に想像できます。ではそれと『自由』がどう結びつくのか。自由な校風を謳うマニフェストでしょうか。文化祭を自由にやらせてほしいという思いを叫ぶのか。……昔の話をすると、実は僕も中学生のときの生徒会選挙で、生徒会長の候補にされかけたことがあるんです」

「されかけた、ということは、実際は出馬しなかったのね?」

「いろいろ手回しをしたおかげで、難は逃れられました。そのとき僕は思ったんです。他の候補者の中には、周囲の人間に乗せられて、無理矢理立候補ひともいるんじゃないのかな、って。おだてられて生徒会の椅子に座らされて、望むと望まざるに関わらず、生徒会として選ばれているひともいるんじゃないのかなって。ひょっとしたら、僕が生徒会長を嫌がったばっかりに、生徒会長にならざるを得なかったひともいるんじゃないかって」

 春の日が落ちるのは、やはり早い。空はもう薄紫色に変わりはじめていて、昇降口のほうから吹き込んでくる冷たい春風が、かすかに身体を震わせた。

「先生。もう一度だけ、訊きます」

 周吾郎はひとつ深呼吸を入れてから、言った。

「――先生は、生徒会選挙のことを覚えていますか?」

 その沈黙は、周吾郎にとって永遠にも感じられた。自分の考えをまとめながら誰かに話すということが、周吾郎はあまり得意ではなかった。結論を言えば話し下手だ。自分の考えを求められたときは嬉しくもあり、同時に億劫であるとも感じていた。

 のだ。自分の考えが上手く伝わらず、軋轢を生んでしまうことが。いたずらに相手を激昂させて、さらなる事件を引き起こしてしまうのが。

 

 周吾郎の息が少しだけ荒くなる。こめかみを汗が伝う。沈黙は数秒だったかもしれないが、周吾郎にとっては数十分にも及んで審問を受けるような、薄氷を踏むような緊張感があった。それを察したのかは定かではないが――周吾郎の問いかけに対して、伊勢谷は柔和な笑みを浮かべたまま、やがて口を開いた。

「もちろん、覚えているわ。忘れられるはずがない」

 伊勢谷は力なく、言った。

「あの日、私は人生で初めて――――を犯したの」

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