#06

「助けに来たとは、少し当てが外れたね」

 倫也は不服そうだった。気持ちはわかる。推理がいまひとつ要領を得なかったとき、自分もこんな顔をしているだろうなと周吾郎は考えた。顔に出やすいのだ。

「てっきり、僕の犯行を予測して、止めてほしいとでも言うと思ったけど」

「いいえ。もちろん止めるべきだとも言っていましたが、それ以前に春瑚さんは『兄のことを一緒に助けてほしい』と僕に依頼したんです。

 ……きっと春瑚さんは、あなたのやろうとしていることを心のどこかで予想していたんでしょう。でも自信がなかった。彼女は自分の導き出した答えが――推論が合っている保証がほしかったんです。いわば虫食いのパズルです。

 だから僕に推理を依頼した。欠けているピースを僕が集めて、完成図の全貌が見えてきたところで、春瑚さんは僕に結論を語った。三〇〇〇ピースのパズルだって、二五〇〇も揃えれば何の絵が描かれているかわかってくるはずです」

「そうか……」

 倫也は目を見開いた。

「春瑚はすでに答えがわかっていた。でもその答えに妥当性はない。だから確度を高めるために、周吾郎くんと協力して僕の身辺を調べ上げた」

「探偵の仕事というのは、もとよりそういうものです」

 雨が降りはじめた。灰色に濁った雲が空を蹂躙し、ぽつぽつと粒の大きな雨がノイズを立てる。大理石の床が水滴を弾いて光る。急速に冷えた空気が肌をなでて、寒気がした。

「僕たちの予想が正しければ、じきに美術館は騒ぎに包まれる。絵画を燃やして自由を叫ぶつもりなのか――先ほどあなたに問うたとき、あなたは名推理だとは言いましたが肯定しませんでした。考えるに、あなたは初めから美術館で絵画を燃やすつもりなどなかったのだと思います」

「ご名答。一枚一枚燃やすだなんて非効率にも程がある」

「だから場所を移した。そうですね?」

 沈黙。周吾郎は続ける。

「ここに来るまでの間、いくつもの絵画を見てきました。素晴らしい作品の数々です。失ってしまうにはもったいない。役目が果たされずにいては価値がない。だからあなたはすべての絵画を解放した。代わりに、彼らによく似たを収めておくことで」

「さすが、春瑚の選んだ探偵役だね」

 倫也は立ち上がり、真正面から周吾郎と向き合った。倫也に隠れて見えなかったが、椅子の後ろには紺色のリュックサックが引っかけられていて、大きな絵筆が紐で固く括り付けられてある。

「きみたちの考えるとおりだ。鶴麗の絵画はすべて偽物とすり替えておいた。そろそろ観察眼の鋭い誰かが気付いて、声を上げる頃かな。果たして周囲の人間はどう振る舞うか。厳粛な美術館で騒ぐなどと忌避するか、一緒になって間違い探しに興じるか、警備員に怪しい人物がいると相談するか、絵画など興味もなく流行のカフェオレに舌鼓を打つか……答え合わせは後でするとしよう」

「回収した本物の絵画は、どこへ行ったんでしょうか」

「さあね。僕としては協会に一任しているところはある。少なくとも美術館に所蔵されることはないだろう。本当に必要としている人のところへ届けるか、あるいはきみの言うように場所を変えてひっそりと火葬するか……そこは僕の領分じゃない」

「美術館に絵が収容されてしまうのが許せない、ということですね」

「ああ。なにも絵だけの話じゃない。美優と知り合ったきっかけが他のなにかであれば未来は変わっていたかもしれない。なぜ僕が、高校一年生の途中にもかかわらず、美優のことも置いて海外へ飛び出したのか、もうなんとなく想像つくんじゃないかな」

「……自由を得るため、ですか」

 倫也は肯く。

「きみの問いに答えよう。

 僕の考える自由。自由そのものの定義は他人と変わることはない。ただ自由は望んだとおりに与えられるものじゃない。自由の権利を持つのはいつだって強者だ。弱者は常に束縛に満ちた生活を強いられ、勢力図に異変が訪れることは未来永劫ない。だから、いつだって自由は勝ち取らなければならない。自由でありたいと思うなら行動を起こすことが何よりも大事だ。

 しかし、絵は有機物であって生き物ではない。彼らが自ずから自由を得ることは難しい。だから僕が代行者となった。すべての絵画があるべき自由を勝ち取るために各地を飛び回った。キング牧師も言っている。『自由は決して圧制者のほうから自発的に与えられることはない。虐げられているものが要求しなくてはならないのだ』と。これが僕の答えだよ。さて、等価交換といこうか」

 雨は勢いを増し、ふたりの服はずぶ濡れになっていたが、言葉は止まらない。

「橘周吾郎。きみは自由をどんなふうに考える?」

「やりたいことを、好きなだけやれるということだと考えていました」

 周吾郎は間髪容れずに答える。

「嘘をついていました。僕は推理が嫌いじゃないと言いましたが、本当は三度の飯よりも大好きです。中学生の時分は推理癖の悪い面が露呈して、悲劇を招くこともありました。それから考え直したんです。僕が本当に好きなものは何なのか。一年近く悩み続けて導き出したのは『構造の理解』です。

 僕は何事においても、過程や仕組みを知ることを最上の喜びとしています。経済学を学べば毎日のニュースの見方が変わるように物事の構造を知ることが大切だと思い、率先して調べることを好んできました。構造を知れば、答えが見えてきます。過去はその答えを誤って行使したことで望まざる結果を招きました。伴って自由に対する見方も徐々に変わっていきました」

「好きなだけやれることだと思っていたのは、過去の周吾郎くんなんだね。今は?」

「……自由とは」

 目蓋を閉じて、じっと考える。

 高校に入ってからも、自由について思いを馳せる機会は幾度となくあった。

 学校の先輩が後輩の自由を望んで生徒会選挙の票を操作させた話を聞き、自身にも似た体験があったことを思い出した。初対面でなりふり構わず推理を進める春瑚を自由の権化だと感じたこともあった。妹の麻里からの問題に苦しむ宗一郎を見て、もっと自由な発想を持つべきだと思った。よく話す人々から自由に対する考えを聞いて、ひそかな違和感を覚えている自分もいた。

 きっと答えが出ることはない。

 出たとしても、数年後に同じ問いを投げられたら違う感想を吐くこともあるだろう。古文でも常なるものはないと言われたように、人の考えなど日々変わり続けるに違いない。

 だから今この瞬間、自分自身が感じていることを言葉として残しておかなければ、きっと後悔する。

 雨音が少しだけ遠くなるような、錯覚。

 周吾郎はゆっくりと目蓋を開き、決意に満ちた双眸を倫也に向けた。

「自由とは、束縛と表裏一体をなすものであると考えます」

「その心は」

「束縛と自由はいつでも共にある。アダムとイブはエデンの園にある禁断の果実を食べましたが、彼らは禁じられているからこそ食べたんです。禁じられていなければ興味を持つことさえなかったかもしれません。

 カリギュラ効果として定義されているように、人は物事が禁じられるからこそ実行したくなるのだと思います。推理してはいけないと制御しようとするがために、より身近に潜む謎に視線がいってしまう。倫也さんも美優さんに出会うことがなければ、絵画を解放しようと思うこともなかったかもしれません。縛られることがなければ、おそらく自由を望む心を持つこともなかったはずです。

 善人がいるから悪人がいる。不合格者が居るから合格者がいる。自由があるから束縛がある。たとえば自分が生徒会長になりたくないからと不正をはたらけば、他の誰かが生徒会長になります。その誰かはもしかしたら自分と同じように生徒会長になることを望んでいなかったかもしれません。トレードオフは避けられません。

 自由に関しても同じことを思います。今回、倫也さんは贋作とすり替えることで本物の絵画を美術館という檻から解放することに成功しましたが、贋作として生まれた絵画はこれからどうなるのでしょう」

「…………」

「なにかを自由にするということは、なにかを縛るということに繋がります。倫也さんの考えはわからなくもありません。絵画は美術館ではなく、本当に求める誰かの手に渡るべきかもしれません。ただ、だからといって偽物にすり替えてしまうのは犯罪です。残された情報を元に推理をして、明るみになった不正をただすことが探偵の務めであるのなら、あなたを見過ごすことはできません」

「……小日向倫也を正しき方向へ導き、助けること。それがきみたちの選んだ道か」

 倫也は天を仰いだ。際限なく降り注ぐ雨が顔を、首筋を、全身を伝っていく。

「わかったよ。僕の負けだ。今日の三時までにここへたどり着ければ諦める、というのはこちらで決めたことだからね。潔く敗北を認めるとしよう」

「……では、一緒に来てくれますね」

「もちろん」

 緊張が解け、周吾郎はぐったりと項垂れる。直後、首の筋に強い衝撃が走って、短い呻きと共に周吾郎は雨で濡れた屋上に倒れ込んだ。

 周吾郎が意識を失ったことを確認すると、倫也はリュックサックを固く縛っていた紐を解き、筆を手に取る。周囲を見渡し、床と同じように白く染められた巨大な貯水槽に視線を合わせた。ちょうどよく軒がある。キャンバスにはお誂え向きだ。

「辞世の句を詠んだあとで、ね」

 雨は、次第に弱くなりつつあった。

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