四 九十九パーセントの努力と

#01

 居間のテレビでは、ふたりの少年少女が荒れ果てた世界を巡るアニメがずっと流れている。メーテルリンクの『青い鳥』をモチーフにした昔の作品のようで、作中では度々「自由とは何か」ということに迫る描写がなされていた。終わりゆく世界で本当の自由を求めてさまよい続ける若者の葛藤を描く、当時としては先鋭的な作品だったらしい。

 焦げ茶色のクロワッサンと、アイスコーヒー。

 ぼんやりとアニメを眺めていた周吾郎の前に、それらはすっと差し出された。

「兄は三日月堂のチョコクロワッサンが好きだったんです。金曜日のうちに買ってきておいて、土曜日の朝、トースターで温めたクロワッサンと水出しのアイスコーヒーを味わいながら、ひとり自室にこもっていることがほとんどでした。家に戻ってきた兄がひとりきりで過ごしていた時間は、そのときぐらいだったと思います」

「手紙にあったクロワッサンとコーヒーは、倫也さんの好物だったということだね」

「外出先から帰ってくるときは、必ずと言っていいほど買っていました。ただ普段は自分で食べることをせず、両親や私への手土産としか扱っていません。兄がクロワッサンを口にするのは決まって土曜日の午前だけでした」

「時間帯に意味があるのはともかく、ヒントであることに間違いはない」

 手のひらに収まる大きさのクロワッサンをひとつとり、食べる。パリパリの食感の奥にチョコの粒がいくつも埋め込まれている。安直に織り込んでいるわけではないと周吾郎は感心した。

「わざわざクロワッサンとコーヒーを明示したことには意味がある。倫也さんとその組み合わせが導き出す答えは、倫也さんの自室。答えが眠っているのはそこだ」

 クロワッサンをコーヒーで流し込み、ふうと一息つく。

「はじめよう。時間もあまり残っていなそうだ」


 暦は六月を迎えようとしている。雨の日が多くなり、今日も太陽は曇天に隠れて顔を出していない。選挙カーからの叫び声も窓を閉めるといくらかマシだ。

 政治家を忌み嫌うわけではなかったが、守れるかどうかわからない約束を声高に口にするという行為は、好きではなかった。自分にできないことなど初めから請け負うべきではないのだ。周吾郎は常々思っていた。

 姿を消した春瑚の兄・小日向倫也の行方を調べるのは骨が折れた。二ヶ月弱の間、旧友の協力で情報を集めたり、当時の同級生をあたるなどしていたが、ようやく高校時代の遍歴が見えてきた程度で現在の居場所を突き止めるまでに至っていない。いつまでも友人の力に頼るわけにはいかず、最近は周吾郎と春瑚ふたりでの行動が続いていた。一度引き受けた以上、せめて倫也が手紙を出した目的がわかるまでは調査を続けるのが筋だ。

 それも、あと少しで判明するところまで、肉薄できている。

 倫也の部屋はこざっぱりとしていた。飾り気がなく最低限の調度品が並んでいるだけで、押し入れの段ボールにも教科書類が整頓された状態で詰め込まれているだけで、ここから小日向倫也の人間性や素性を暴くのは厳しいものがある。周吾郎は尋ねてみた。

「倫也さんは、自分の部屋以外にものを置く、ということは?」

「ほとんどしませんでした。そもそも兄は物欲に欠けるようなところがあったので……それこそ、携帯電話すら持とうとしなかったくらいですから、部屋にコレクションを飾るということはしなかったと思います」

 倫也は絵を描くのが上手かった。しかし部屋には落書きのひとつも転がっていない。倫也が美術部であったかは定かではないが、絵を描くのが趣味であったとするなら、教科書の隅にイラストのひとつやふたつあってもおかしくない。だから、余計に倫也はおかしな人物だった。

 似た違和感を覚えたのは、一度ではない。周吾郎は思い出す。

「高校に入ってから絵に情熱を燃やし続けた美優さんの部屋には、ラフ画の一枚も残されていなかった。祖母の文江さんにも絵がどこにもないことについて訊いてみたけど、妙な返事が返ってきた」

「妙、ですか?」

「うん。美優さんは、描きあげた絵をすべて

 収納スペースを探し尽くしても、小日向倫也の絵画は発掘できない。卒業文集の表紙は見事な一枚絵だった。あれだけの才能を持つ倫也が、一枚も絵を残さなかったのは、なぜか。

「文江さんも同じ疑問を持ったそうでね。休みの日になると、完成した絵をリュックに詰めて、バスで出かけていたそうなんだ。帰ってくるとリュックは空っぽになっていた。絵はどうしたのかと訊くと、美優さんは笑顔で答えた。《ぜんぶ燃やして捨ててきた》、と」

 春瑚は、わずかに身震いした。

「なぜ、燃やしていたんでしょう」

「美優さんの考えていたことはもうわからない。でも推測することはできる。美優さんの携帯には無政府芸術協会からのメールが届いていた。無政府芸術協会は、読んで字のごとくアナーキーな芸術を推奨していて、掲げている思想のひとつにこんなものがある。《絵画に、あるべき自由を》」

「絵画の、自由……」

「僕の推測した過程は、こうだ」

 一通りの捜索を終え、周吾郎は椅子に――倫也が使用していたと思しき革張りのロッキングチェアに腰を下ろして、春瑚を見上げた。

「絵を描くことが好きだった倫也さんと美優さんは、何かがきっかけで無政府芸術協会と関わりを持つようになり、彼らの思想に賛同し、自らも無政府芸術者として活動するようになった。描いた絵を焼く、というのも活動の一環だったのかもしれない。程なく倫也さんは海外に飛び立ち、美優さんは鶴見にとどまって就職した。社会人になっても活動を辞めることはしなかったんだろう。そうでないと、亡くなって三年が経つ今もメールが届くのはおかしな話だ」

「美優さんは市役所に勤めるようになってからも、無政府芸術協会の一員として活動していたと考えられそうですね。そしてあるとき、何かが原因で暗く陰鬱な表情を見せるようになって、ついに自殺してしまったということになります」

「なぜ美優さんは自殺したのか。ふたりで考えたとき、小日向さんは『死を選ばざるを得ない状況に置かれてしまった』と言っていたね。疚しいことを抱えていなかった美優さんが自殺するまで追い込まれるとなると、それくらいしか可能性がないと」

「はい、私は今でもそう思います」

「僕も今はそう思う。そして」

 周吾郎は机に肘を乗せた。

「事の顛末は、きっとここに眠っている」

 折りたたみができる簡素な机で、ペン立てや辞書と並んで古びたノートパソコンがひっそりと佇んでいる。誰かがここへ来るのを待っていたかのように。


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