#10(了)
喫茶「シャーロック」では、春瑚が二杯目のココアを口にするところだった。周吾郎はウインナーコーヒーを注文すると、春瑚の向かいに座る。
「周吾郎さんって、いつも飲むものが違いますよね。先日は抹茶ラテでしたっけ」
「どうせならメニュー制覇みたいなことがしたくてね。裏メニューはないのかな」
「常連さんになれば教えてもらえるかもしれませんね」
「わからないよ。シャーロックを銘打っているくらいだから、何かしら謎を解かないと提供されないかもしれない。もしかしたら、合い言葉とかがあるのかも」
「店内の装飾に秘密があるというのも考えられそうです。ほら、たとえばあそこ、ブリタニカ百科事典が飾られていますが、順番通りになっていません」
「カウンターの椅子の色がまちまちなのも気になるね。トンツーに変換したら隠されたメッセージが浮かんでくるということも……」
話は弾んだが、どうも長続きしなかった。両者ともそれがわかっていたようで、やがて沈黙が訪れると、ふう、と小さく息を吐いて、春瑚が尋ねた。
「……それで、結果はどうだったんでしょうか」
訊かれた周吾郎は、新聞部を辞去してから学校を出るまでに起こったことを簡単に説明した。
大方の推理については、昨日の時点で春瑚には話してあったので、主に話したのは伊勢谷奏子が高校三年生のときに犯してしまった「不正」についてだった。
事の顛末はこうだ。
椎原奏子には高校生の当時、伴汐美という仲の良い同級生がいた。ふたりとも新聞部に所属しており、三年時は伴は生徒会、椎原は選挙管理委員会を兼任していた。伴は非常に面倒見の良い人間で、後輩たちに慕われ、相談に乗ることも多かったらしい。ひとりで解決するのが難しい悩みも多く、そのときは親友である椎原に意見を聞くこともあったという。椎原も仲の良い友人だからと不思議に思うことは何もなかったそうだが、あるとき伴から持ちかけられた相談には、さすがに疑念を抱かずにいられなかったという。その相談というのが次のような内容だった。
『次の生徒会選挙で後輩が立候補するから、なんとか票を操作して落としてほしい』
椎原は耳を疑った。なんども聞き返すが、伴は同じ頼みを繰り返した。相談ではなく依頼も初めてのことだった。理由を聞いても伴は答えない。後輩の面倒見のいい伴が、後輩の邪魔立てのようなことをするのが信じられなかった。
だが親友の頼みを無下に断ることもできず、結局椎原は三年時の生徒会選挙において、委員会のメンバーにも話さず、こっそりと票の操作を行った。ほんの数票だったがそれでも結果は覆った。勝った人物が異なるだけで、本当に接戦だったのだ。票操作を行ったことで、伴の後輩は生徒会長にはなれなかった。その後輩が筆頭候補だったのかは知らないが、結果を受けて生徒会選挙は多いに盛り上がりを見せたまま終焉を迎えた。
選挙のあと、椎原はせめて理由だけでもと伴に話を聞こうとしたが、伴はなにも語ろうとしなかった。やがて受験シーズンが佳境になり、椎原は進学、伴は就職ということで、異なる道を歩む二人は段々と疎遠になっていった。
それでも時間を見つけて椎原は伴と登下校をともにしたり昼食をとったりしたが、大抵は世間話だけで終わり、生徒会選挙のことについては話題に上がることもなかった。その頃になると、昔のことを蒸し返すようで、椎原のほうから不正の話を避けるようになって――ついに卒業の日を迎えた。
最後まで、親友が不正を頼んだ理由は明らかにならなかったのだ。
そんな椎原に対して、伴はひっそりと手紙を残していた。
『キヨシに感謝する。彼女がいなければ、この自由は得られなかったのかもしれないのだから』
直接渡せばいいものを、伴はふたりの間でしか使っていなかったあだ名だったり、わざわざ新聞部のバインダーに隠したりして、メッセージの存在を徹底的に隠匿した。今となっては、伴に直接聞かない限り、真意はわからない。だが、周吾郎の話を聞いたあとに、改めてメッセージを受け取った椎原は――伊勢谷奏子は、ほっとしたような表情を見せて、安堵に満ちた声でこう言った。
「そっか。きっとあの子は、後輩を救おうとしていたんだね」
伊勢谷の言葉に対しては、周吾郎も同意を示した。
在りし日に残された怪文書のあらましは、そんなところだった。
「でも、だからといって不正をしてもいいんでしょうか」
話し終えた周吾郎に、春瑚は言う。
「票を操作しなければ、伴さんの後輩さんが生徒会長になっていたわけです。もちろん後輩さんが嫌がったから不正が行われたのかもしれませんが……そうなると、残された候補者の方々の意思が封じられたということになるかと感じます」
「他にも嫌々立候補した人がいたならね。たしかめる術は、どこにもない」
周吾郎はコーヒーで口のなかを湿らせる。
「ただ、高校で生徒会長になったならないで人生が変わるかと聞かれると、僕は否定的だ。バタフライエフェクトの一因になるかもしれないけど、生徒会長の経験だけが対象になるわけじゃない。日々の経験すべてが未来への積み重ねなわけだ。経験は積み重ねるものである以上、どんな道をたどったとしても、最終的な到達地点はそう変わらないんじゃないかと思う。どんな学校生活を送っていても、普通に生きていれば、すべての生徒が同じ日に卒業を迎えるように」
「私も根本的な考えは同じです。でも、なんだかやりきれません」
「……視点を変えよう。推理の結果はプラスに働いたと考えるんだ。伊勢谷先生は不正に対して、少なからず負い目を感じていたようだからね。かつての親友の意思がある程度理解できたのも、安心できる材料のひとつになっただろう」
「周吾郎さんはどう思いますか」
春瑚が問う。
「不正を行うことについて、もしもそれが大切な人――たとえば御子柴さんのようなひとから頼まれたようなことだとしたら、周吾郎さんはどのように振る舞いますか」
「不正か。僕は……」
周吾郎は少し考える。
不正をするということは、つまり嘘をつくことだ。涅槃経において、ブッダは純陀の料理を食べて食中毒で死んだが、純陀が経験な仏教徒だったから、純陀は最後の供養をしてくれた、崇めるべき存在だ――と言った。しかし、純陀としては必ずしもそうではなかった。単純にブッダをもてなそうとしただけだ。本当に供養のために料理をしたかと言われると、きっと嘘になるだろう。
周吾郎なら違う方法をとった。食中毒になるほどの料理を出されたのなら、間違いなくそれは指摘すべきで――指摘した上で、これから純陀がどうするべきかを考える。涅槃経にけちをつけるわけではないが、それが一番だと思った。そんな思考をぐるぐる巡らせながら、周吾郎は答える。
「僕なら、嫌がられたとしても、徹底的に理由を洗う。教えないのなら調べ上げる。そうして事実関係を知った上で、最適解を見つけようとするだろうね。そうでなければ、もしかしたら巨大な齟齬が生まれるかもしれない。それが原因で、誰かが負い目を感じたり、不幸になることもあるかもしれないからね」
ウインナーコーヒーだというのに、少し苦い味わいがするような気がした。店主がザラメを入れ忘れたかもわからない。今日はもう、そんな推理をする気にはならなかった。周吾郎は問いかける。
「小日向さんは?」
「私も、同じです」
春瑚は両手で持ったカップをことりと置いて、安心した様子で微笑んだ。
「不正をただすことが、探偵のあるべき姿ですから」
***
外が暗くなり、さて帰ろうかという頃になって、春瑚は思い出したように一冊の本を取り出した。周吾郎はその本を見てたいそう驚いた。緻密な絵が描かれた革張りの表紙はさすがに見間違えない。
「卒業文集じゃないか。そういえば、借りるって言ってたっけ」
「はい。無理を承知で、伊勢谷先生に一日だけ貸してもらうことにしたのです」
「でもまた、どうして?」
訊くと、春瑚は表紙の絵を周吾郎に向けた。顔はどこか上気しているように見える。その理由が周吾郎にはわからなかった。
「周吾郎さんは、これをなんだと思いますか」
「絵だね。まごうことなく絵だ。もしくはイラストレーション。……違う答えをお望みかな。装画、彩色画、あるいは卒業文集であることからして青写真となど……」
「……そうではなく、絵としてどう思うかということです」
「ああなるほど。いや、とても素晴らしい絵だと思うよ」
「私もです。まさかこんな特技があるとは知りませんでした」
「特技?……」
周吾郎が要領をつかめずにいると、春瑚は文集の裏表紙をめくり、最後のページを開いてみせた。そこには印刷所やら学校名やら、制作に関わったひとや場所が記されている。そのなかにはもちろん、卒業文集の制作に関わった生徒の名前もある。
生徒会をはじめとして、新聞部に写真部、文芸部。
そして、表紙のイラストを描いた――――
「……なんてことだ」
「周吾郎さん。急がば回れとは、よく言ったものかもしれません」
卒業文集の表紙を飾る、緻密で華麗なイラスト。
作者名は――――小日向倫也。
まさしく当初の目的である、春瑚の行方不明の兄、そのひとの名前だった。
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