#03

 鶴麗かくれい、という愛称がつけられた鶴見市立美術館は、開館初日から盛況だった。

 周吾郎の知る美術館というのは、もっと閑散としていて、審美眼を持った人がほうほうと感心げに唸っている厳かな印象がある。大衆文化ではなく限られた人間だけが心の底から楽しめる、礼節を重んじた場所だと思っていた。

 鶴麗はもちろん美術館であるが、一階のホールには有名コーヒーショップや写真スタジオの出店があり、フードコートも併設され、主要な美術品は二階より展示される格好になる。街の心臓部に満を持して築かれたということもあり、美術に興味を持たない人種でも楽しめる作りにしているのが好印象だった。老朽化の進んでいたデパートが居場所を追いやられるのもやむなし、というところだろう。元より、かのデパート――名前はAZO鶴見だったかと周吾郎は記憶している――の一部施設は最終的にもうひとつの巨大ショッピングモール・アトリ鶴見に吸収されることになったので、すべてが失われたわけではなかった。

 それでも、思い出の場所が戻ってくることはない。小日向倫也がAZO鶴見にどれほどの思い入れがあったのかは定かではないが、懐かしの屋上が跡形もなく消え去り、代わりに忌むべき美術館が建立されるとなれば、無政府芸術協会の一員として思うことはあっただろう。

 階段を上っていると携帯に着信があった。柚希からだった。

「武藤美優の過去を洗った。さすがに彼女の情報は削除しきれていないようだったな」

「ありがとう。それで、どうだった」

「あったぞ。署名の記録がな。彼女、役所勤めをする傍ら、美術館建設の反対運動にも参加していたようだ。無政府芸術協会による企てかはわからんが、鶴見市と反政府団体の対立が水面下であったことが記録に残っている。運動は半年以上続いたところで、鶴見市が運動の支援者にはたらきかけ、強制的に鎮圧させたとある。裏で何が行われていたかは判明していないが、まあ、政治の話だ。巨額の資金が動いたんだろう」

「埋蔵金ってのは、探せばどこにでもありそうなもんだね。もっとつつけば面白いことになりそうだけど、これ以上やると父さんに叱られるからやめだ。……それにしても、無政府芸術協会か」

 芸術の自由を掲げながら、その自由を守れなかったとなると、すべてが嫌になってしまうということも考えられないことではない。思いの強さによっては命を落とす決断をすることもあるだろう。美優が自殺した理由も段々と見えてくる気がした。

「茅島。きみの意見が聞きたいんだけど」

「なんだ、藪から棒に」

「自由ってものを、きみはどんなふうに考える?」

 電話の向こうからは「自由か……」と呟く声が聞こえた。程なくして、柚希は再び言葉を紡ぐ。

「自由とは行動を疎外されないことだ。互いが互いの領域を侵犯しないうえで、その範囲で思うがままに行動することだと、私は考える」

「はは。茅島らしい答えだね」

「好き放題に侵犯する奴に言われたくないがな。そういうお前はどうなんだ。橘周吾郎は、自由をどんなものだと心得る」

「僕か。僕は、」

 言いかけて、周吾郎はくすりと笑った。

「やめとこう。話さないのもまた自由」

「人に話させておいて都合のいい奴だな」

「僕、この戦いから戻ったら、自由について説いてみようと思うんだ」

 通話は無言で切られていた。付き合いが悪いなあ――と周吾郎は苦笑する。もしかしたら、これが最後の会話になるかもしれないのに。

 時計を見ると、まだ少し余裕はありそうだった。備えあれば憂いなしという。

 周吾郎は推理に協力してくれた面々に同じ問いかけをしてみることにした。


「自由……ですか。私は難しいことは考えられませんが、自分の思うがままにいろいろなことを進められるのであれば、自由なのではないかと思います。答えになりましたでしょうか? どういたしまして。……あの、無理はしないでくださいね」


「すべての人が自分の望む方向に進めたなら、それが自由だろう。ああいや、わかってる。そんなことは絶対にありえねえ。でも今はそれ以外に答えを見つけられてないな」


「自由は自由ね。それ以外に考えたことはないわ。どんなふうって言われても、簡単に決められるものじゃないと思うの。私の思う自由と橘くんの思う自由は違うでしょ? 要するによくわかんないわ」


「自由か。自由は往々にして責任を伴う。私たち人間は誰でも自由が与えられるが、それは常識の範囲で行使しなければならない。そのために法がある。社会的に許されない行為にも自由を求めるのは犯罪と変わらない。無政府芸術協会のようにな。……周吾郎。なにかあれば、すぐに連絡するんだぞ」


 周吾郎は率直に驚いた。

 わかってはいたが、みな自由に対する考え方は違う。視点も許容範囲も十人十色。アドレス帳の残り全員に聞いてみたところで、誰かと同じ答えが返ってくることはないだろう。だから人の思想を予測するのはとても難しくて、考えたところで解決する代物ではない。周吾郎は前向きに諦めた。

「直接話してみるしかない、ってことかな」

 階段を進む足取りが止まる。

 目の前には扉がある。階段はここで行き止まりのようで、周囲の壁と同じように白い扉に、真新しい真鍮のノブが取り付けられてある。この先は屋上につながっているはずで、一般客は立ち入ることができない。美術館の見取り図を見る限り、屋上には何も展示物はなかったはずだ。

 ドアノブに手をかけ、捻る。

 鍵が引っかかる感触はなく、風に押されて、自然と扉が開いた。

「せっかくだから、あなたにも」

 扉の向こう側。

 白亜に光る大理石タイルの上に、一脚のパイプ椅子と、腰掛けて俯く男がいた。男は周吾郎の存在に気付くと、頭をもたげて、笑みを孕んだ表情を覗かせる。

 周吾郎は問う。

「自由というものを、あなたはどんなふうに考える? ……小日向倫也」

「知らない顔だなあ。誰だい?」

 男――小日向倫也は口角をつり上げて、さぞかし愉快そうに、嗤った。

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