#05

 いきおい走り出すものではないと周吾郎は後悔した。

 倒れ込んだ視界には満天の星が映っている。くたびれた背中にコンクリートの温度が伝わってきた。弾かれるように屋上へと飛び出して、屋上側から鍵がかけられるものだから、鍵をかけてしまった。屋上ではビアガーデンの準備が進められているようだったが、まだ時期が早いからか明かりは点っていない。人は誰もいなかった。好都合だった。

 誰も入ってこないのがいい。

 誰にも邪魔されないのがいい。

 周吾郎は扉のすぐ横に座り込み、壁に背を預けた。

 身体が冷やされ、徐々に頭が落ち着いてくる。夜の交差点で空を見上げても星は見えないが、明かりに乏しい屋上からはたくさんの星が見えた。夏にはまだ早いが、大三角形もその姿を徐々に表している。周吾郎が空を眺めなくても星の位置は毎日変わる。変わらないようで少しずつ動いている。兼好法師が記したように、一切のものは無常だ。変化しないものなどこの世界には存在しない。現代文でそんなふうに教えられた。

 周吾郎はこう思う。

 少しずつ変わっていくことは、変わらないことと同義である、と。

 春瑚には悪いことをした。さっきまでごく普通に話していた同級生が、突然ヘビでも踏んづけたように走り出していくのは奇天烈なことこの上なかっただろう。

 合わせる顔がなかった。明日からどうしたものかわからなかった。ことに今は小日向倫也の捜索をしている最中だというのに――

「……やめだ」

 忘れよう。頭をぶんぶんと振り払った。安易に首を突っ込むべきではなかったのだ。

 初めは軽い人助けのつもりだった。ちょっとした人捜しで、普段から彷徨しているような人だから、最悪見つからなくても仕方がないと思っていた。奇妙な手紙には心躍ったし、調査の過程で巻き込まれた新聞部の事件も、文太の隠しごとも、今のままでは何の刺激もなかっただろう高校生活のスパイスとしてはちょうど良かった。

 美優が自殺した話を聞いてからは、正直気乗りはしなかった。やがて無政府芸術協会の名前が出て、小日向倫也が成そうとしていることに段々と見当がついてきて、小さな人助けが大きな事件につながっていることに気づきはじめた自分が嫌になった。もう少しで倫也までたどり着けるかもしれない事実に、急激に葛藤を覚えた。

 探偵ごっこは、もうやめたはずだ。

 真相にたどり着いて、犯人を説得する。そんな真似はやめると誓った。

 あの日誓ったはずなのだ。

 それなのにまだ、十五歳になった橘周吾郎は、探偵ごっこを――推理の快感を忘れられずに、謎を解き明かした喜びを拭いきれずに、夜空を見上げていた。

 周吾郎は強く思う。

 少しずつ変わっていくことは、変わらないことと同義である、と。

 漸進的に白に近づいたところで、闇が一滴落とされれば、また黒に戻るのだ。

「もうやめよう、推理のまねごとなんて」

 虚空に言葉を吐き出した。

 これでいい。明日からは完全に身を引いて、しばらくは推理小説を読むことだけに執心して、休日の昼間にサスペンスを見たりして、自分の世界だけで楽しめばいい。

 これで何も、問題は――――






「どうして、やめてしまうんですか」

 言葉に、返事があった。

 周吾郎は反射的に声がした方向を見る。鍵をかけていたはずの扉には、いつの間にか湊川高校の制服を着た少女が――小日向春瑚が音もなく寄りかかっていて、周吾郎のことを心の底から不思議そうに、じっと眺めていた。

「小日向さん、どこから」

「どうして周吾郎さんは、推理をやめようとしているのでしょうか」

 険しい表情は、疑問以外の思いも孕んでいるように見えた。

 春瑚は続ける。

「まだ数えるほどでしかないですが、周吾郎さんの推理を間近で見てきて、私は心の底から素晴らしい人だと思いました。これほどまでに鮮やかに事件を解決できる人が同じ年の高校生にいるだなんて想像もしていませんでした。自分がそうではありませんから、尚更です」

「……買い被りすぎだよ、それは」

「私はそう思いません」

 春瑚の目は、鋭く、非難に近いもののように感じた。

 初めて出会ったときと、同じ顔だった。

「ですが、周吾郎さんがそう考えるのには、理由があるのだと思います」

「…………」

「以前、周吾郎さんは事件の結末には興味を持たず、過程にのみ興味を持つのだと話してくれました。私はそれから、どうして周吾郎さんがそういった思いに行き着いたのか、私なりに考えてみたんです。考えることは苦手ですが、周吾郎さんならどうしたか、を考えているうちに、なんとなくこれだと思えるものに行き当たったんです」

「仮に、小日向さんが導き出したその答えが、合っていたとして」

 周吾郎は問う。

「どうして小日向さんは……おくびもなく、それを口にできるんだ。なぜきみは、合っているかもわからない、確証のない答えを提示して、相手に突きつけることができるんだ」

 春瑚は答える。

「探偵の務めだからです」

 迷いはなかった。

 初めて出会ったときと同じ、自信に満ちた顔をしていた。

「今から話すことは、私なりに考えてみた、周吾郎さんの抱える謎についての解答です。たどりつくまでに時間を擁しました。でも、不思議と迷いはありませんでした。それは周吾郎さんの言っていた、私の価値観をひっくり返してしまうような、とてもとても大きくて、探偵として生きる者にとって不可欠な教えがあったからだと思います」

 春瑚は笑みを浮かべて、言ってのける。

「謎は、解けるようにできていますから」

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