#04
倫也はポケットから、銀色の懐中時計を取り出した。色はところどころ褪せていて、ネジがひとつ外れてしまっている。時計に触れる手はどこか愛おしげに見えた。
「現在の時刻――午後二時五十四分。驚いたな、セーフだ」
セーフという言葉から推測するに、今日の午後三時がタイムリミットという説は正しかったらしい。周吾郎はほっと息を吐く。椅子に腰掛けたまま、倫也が問うてくる。
「どうして僕が屋上にいると?」
「無政府芸術協会は痕跡を残すことを好まない。季節は梅雨を迎えました。もしあなたが何事かを成そうとしているのなら、雨が綺麗に掃除してくれる周縁部か屋上だと思ったのです。人目につかない場所で思い浮かぶのは、やはり屋上です」
「見張りが何人かいたはずだけど」
「二人だと聞いています。さすがに危険を伴うので、確保は警察に手伝ってもらいました。身辺調査の結果は聞いていませんが、誰であれおそらく無政府芸術協会の一員かと考えます」
「警察ね。どうやらきみは、一般的な少年Aではなさそうだ」
倫也は余裕たっぷりの笑みを崩さない。
「彼らは協会の人間ではないよ。素性を洗うだけ無駄さ。今回は公的に募集を駆けて協力してもらったんだ。きみ、名前は?」
「橘周吾郎。周吾郎で大丈夫です」
「橘、周吾郎。警察。ああ、なるほどね」
納得したように肯く。どうやら宗一郎の存在も頭にインプットされているようだった。それほど用意周到でなければ、無政府芸術協会のメンバーというのは務まらないのかもしれない。
「彼は優秀な人物だけど、実直すぎるのが玉にキズだね。もっと柔軟な脳みそを持つか、そういう部下を直属に置けるようになれば、より肉薄できるかもしれないのに」
「それについては、少し同感ですね」
「ははは。少年周吾郎は親父さんと違って少しは柔らかそうだ」
周吾郎はむっとする。
「少年扱いは心外ですね」
「少年だとも。鶴見市から外の世界をほとんど知らない、まだまだ未熟な坊やだ。僕もそうだった。高校生になるまでは文献で調べた知識をもとに世界を知った気になっていたけれど、現実は甘くなかった。打ちひしがれたよ。まずマサチューセッツに行ったんだ。デトロイトやペンシルバニアも訪れたかな。それからまた海を渡って、スイスやルクセンブルクの風景も見てきた。チェコスロバキアは解体されたあとだった。もう昔の話だ。懐かしいなあ」
「ずいぶんと海外を巡ってこられたんですね。目的はなんだったんでしょうか」
「ないよ」
倫也は急に憮然とした表情になった。
「僕は僕がそうしたいと思ったから海外留学を決めたんだ。強いて挙げるなら見聞を広めることだね。海外に協会の母体があると聞いていたから、そこへはついでに立ち寄った。ずいぶんと馬が合ったよ。連中のなかには一晩で凱旋門に黒塗りの装飾をしてやろうというやつもいてね。彼はもう殺されてしまった。人の死は四十二回ほど眺めてきたかな。それでイスタンブールへ来た辺りで、頃合いだと思って日本へ帰ったんだ」
「……今から、三年ほど前ですか」
「それくらいになるのかな? 周吾郎くんなら知っているかもしれないけど、僕には美優という恋人がいた。一緒に居たのは短い期間だったけどね。瑠璃色のブローチが似合う素敵な女性で、彼女を通じて僕は協会の存在を知った。心が晴れる思いだったよ。僕にとって桃源郷と呼ぶに相応しい場所だった」
「高校時代に、美優さんと向かっていた場所。やはり無政府芸術協会だったんですね」
「そこでは誰もが思いのままに芸術を使役できた。ある者は無理矢理に描かされた絵画を焚き火に焼べた。ある者は日すがらフィルムの入っていない映写機を回し続けた。ある者は三十階建ての高層ビルから飛び降りて自身の肉体を芸術作品として完成させた。決まりに縛られることなく、僕らは芸術を創造できたんだ」
聞きながら、周吾郎は渋面を作った。
無政府というのは、字面だけ見れば自由と同義にも見えるが、その実は規則に縛られない無法地帯と変わらない。自由にも程度がある。芸術のためとはいえ、命を捨てられるほどのものがあるのだろうか。そんな彼らが信奉する芸術とは、一体何なのか。
周吾郎は尋ねた。
「倫也さんは、どんな芸術を創造していたんでしょうか」
「なんだ。もう行き着いているのかと思っていたよ。僕が続けていたのは『落書き』だ。少し前は三茶のあたりにレンブラントの夜警を描いてきたよ」
何度も聞いた話だ。全国で被害が拡がっていて、警察も手を焼いている謎の落書き。知名度が上がるにつれ、むしろ落書きされたいと思う人が続出しているというストリートペイントだ。宗一郎は未だに尻尾を掴めていないとやきもきしていた。
春瑚も『公共物に絵を描くのは、良いとは言えません』と悲しんでいたが、犯人は実の兄だったということになる。どう説明したものか。
「倫也さんは、なぜ落書きをしているんでしょうか」
「話がようやく戻ってきたか。与太話が好きなのは悪い癖だ。直そうと思っているんだけどね」
倫也は困ったように笑ってから――ゆるやかに、虚ろな顔を作った。
自殺志願者の告白のように冷たく、およそ生気を感じられない声色で、周吾郎の鼓膜を震わせた。
「僕はね。すべての絵画を解放すべきだと思っているんだ」
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