#03

 文太の家である二〇七号室の玄関扉を開けると、ごく一般的な家庭の風景が広がっていたので、周吾郎はいくらか安心した。これでヒョウ柄の玄関マットや剥製でも飾られていようものなら、やい文太お前ジャンプしてみろ持ってるのはわかってるんだぞぐへへと友人甲斐もなく脅迫することも視野に入れていたが、犯罪者にはならずに済んだ。帰ったら父の宗一郎に貧富について説いてみようかとも考えた。

「ま、とりあえずゆっくりしてってくれ」

 文太はキッチンから引っ張り出した紙コップをテーブルに置いて、麦茶を注ぐ。

 御子柴家は玄関をくぐるとすぐに廊下があって、左には青色メインのシステムキッチン、右には鍵付きの引き戸がある。システムキッチンは調理用具が所狭しと並べられていて、親が料理好きなのが伝わってくる。引き戸に関しては、外から見たときに格子付きの磨りガラス窓が右側にあるのが確認できていたので、おそらく浴室の扉だろう。廊下を進むと目の前にもうひとつの引き戸があって、開くと居間が、更に左手には引き戸が見える。文太いわく寝室ということだった。居間は十畳近くあり、隣の部屋も同じくらいだという。御子柴家は三人家族だったはずなので、普通に住む分には不便しなさそうだ。

「それで、親戚からお菓子をもらったんだっけ」

「ああ。こいつがそれだ」

 テーブルに置いてあった平たい四角の包装を解くと、黒地に赤文字で「FRAN」と書かれた箱が出てきた。記憶の限りでは隣の県の土産物だったはずだ。

「うちは父も母も、ひとつ食べたきりで満足してしまってな」

「わかる。うちの父親もそうなんだよ。部下からもらったお土産は『この歳になると胃袋が小さくなってたまらん』って全部押しつけてくるんだ」

「周吾郎のところは多そうだな、そういうの」

 まあほとんど麻里が片付けるんだけど、と周吾郎は笑った。最近は体重を気にしているようだが、気にするくらいなら食べなければいいのにと思う。

「フランはたしか、隣の県の……後藤屋ってところの銘菓だったかな」

「そうそう。よく知ってるな、周吾郎」

「さすがというか、わりと有名じゃないか」

「後藤屋さんの『富蘭』は創業時からずっと製造されている人気商品ですからね。『富蘭』という名前は、かつてあちらの地方でキリスト教を布教していた宣教師にあやかっているそうです」

「宣教師。フランシスコ・ザビエルか。詳しいんだね、小日向さん」

「ええ、まあ、お付き合いすることもありましたので」

「お付き合い?……」

 春瑚の言葉に反応したのは、ようやくどっかりと腰を落ち着けた文太だった。

「ちょっと待てよ、小日向? もしかして、小日向さんってあの『小日向軒』の?」

「は、はい。末子ですが」

「本当か! いやあ、これは驚いた」

 文太は大げさなくらい目を丸くして驚いた様子だった。文太は嘘がつけない質なので、純粋に驚く点があったのだろう。春瑚は少し気恥ずかしそうにしている。

 ところで周吾郎は状況が飲み込めていない。話の流れから、小日向軒が春瑚の実家であり、名だたる菓子屋であるあらしいことは理解できたが、どこに驚けばいいのかわからなかった。調べるのも億劫で、訊いてみる。

「文太。小日向軒って有名なのか?」

「おいおい周吾郎、何を言ってる、有名どころじゃないぞ! 甘味好きの周吾郎が小日向軒を知らないとは珍しいな、後藤屋とかは知っていたのに」

「ははあ、まあ、僕はちゃんぽんなんで」

「小日向軒といえば、全国でも有数の老舗和菓子店だ。なんといっても……」

 文太は中腰になって演説さながらに話しはじめる。こうなると文太の話は長い。周吾郎は話半分に聞きながら、焦点を周囲に向けた。

 居間は目立っておかしな部分はなく普遍的だ。廊下からみて左奥にテレビが置かれていて、中央にローテーブル、周りには囲むように座布団が三枚敷かれている。右の壁には食器棚と本棚があり、隣に鳩時計がある。文字盤はなく、長針と短針だけのタイプだった。食器棚はガラスコップや平皿など必要最低限の食器しか置いていないようで、スペースがかなり空いている。夏になればかき氷機でも置くのかもしれない。

 本棚は文庫本と雑誌で埋め尽くされていて、小説はほとんどが池波正太郎や浅田次郎などの時代小説が所狭しと並んでいる。古いもののようで、紙がすっかり黄ばんでいるものもあった。文太が小説を嗜むというのは耳にしたことがなかったので、父親の趣味なのかもしれない。雑誌は旅行誌がメインで、北海道、熱海、京都、沖縄といった類いの観光地が見える。本棚の一番下の段は何十枚もの新聞が無造作に突っ込まれている。部屋の隅にあるゴミ箱はくしゃくしゃのメモ用紙がたくさん入っていた。周吾郎の脳裡には幼い頃に訪れた平屋の御子柴家の光景ばかり思い出されて、なかなか違和感を拭えない。最後に訪れたのは数年前になるだろうが、それだけで他人の家の様相はここまで変わるのか――と周吾郎は思ったが、マンションに引っ越したのだから内装がまるっと変わってしまうのは仕方のないことだろう。

 文太は数分間に渡って小日向軒の凄さについて語っていた。話のさわりをさらに要約すると、小日向軒は海外からも高評価を受けている和菓子店にもかかわらず、店員は店主とその妻だけだそうだ。あとはスイーツガイドの評価内容や立地などのことばかりで、周吾郎の記憶には残らなかった。

「というわけで、小日向軒は鶴見に住むなら絶対知っておくべき名所なんだ」

「そんな……名所だなんて恥ずかしいです」

 素直に照れているようで、春瑚は耳まで赤くしている。確かに甘味好きとしてはチェックしておくべき案件かもしれないが、今は特に興味を引かれなかった。今はそれよりも気になるトピックを抱え込んでいるのだ。

「そうだ、小日向さん。せっかくだから文太にもあの件を相談してみないかい」

「御子柴さんに、ですか?」

「おお、そうだ。それもあったんだった」

 文太はぽんと手を打つ。

「聞いたところによると、最近何やら、難解な事件を調べているそうじゃないか。あまり役に立てるとは思えないが……俺でよければ力になるぞ。合格発表のときの借りもあるからな」

 聞いたところというのは、おそらく山崎なのだろう。口が軽いか堅いかで考えると、失礼ながらも軽い印象が強い。

「あれに関しては気にしなくていいよ。貸し借りはナシでいこう」

「わかった。で、なにがあったんだ」

 隠し立てすることでもないので、周吾郎は春瑚の了解を得てから話しはじめた。

 春瑚の兄である倫也がいなくなったこと。倫也に関する情報を集めているが、なかなか捗っていないということ。倫也が残した手紙のこと以外は洗いざらい話してしまった。一通り聞いてから、文太は何度か頷くと、こう切り出した。

「なるほど、思ったより大変な事態だな。警察に捜索願は出してないのか?」

「出そうと思ったんですが、父と母が『そのうちひょっこり顔を出すだろう』と言って聞かなくて……。なによりお店がとても忙しいので、下手に話が広がって今までより多くのマスコミが殺到するのを嫌がっているようです」

 文太はちらと周吾郎のことを見た。なぜ僕に目を向ける――と周吾郎は笑う。

「老舗菓子店の跡継ぎ……いや、跡継ぎにしようとしているかは僕の知るところではないけど、それでも家族が行方不明になったのであれば、ワイドショーの格好の餌食だろうね。理論的に考えて、平穏無事な日常でありたいと望むのなら事件のことは積極的に公にするべきじゃない」

「でも、人がひとりいなくなっているんだろう? 本当にふらっと旅に出ているだけならいいかもしれないが、誘拐事件とかに巻き込まれた可能性だってあるかもしれない。天命を待つには、まだ人事を尽くしきっていないはずだ」

「あ、いえ、そういうことではなくてですね……」

 春瑚はうんうんと悩ましげだ。ひたむきに真面目な人間に対して嘘をつきとおすのは難しい。ことに文太はクソがつくほどに実直だ。周吾郎は返答を引き継いだ。

「大丈夫だよ、小日向さん。御子柴文太って男は信用に足る」

 そう言った瞬間、文太の顔が一瞬引きつった気がしたが、周吾郎は見なかったことにして、手紙のことも文太に伝えた。

 行方不明になっている小日向倫也はなにかを企んでいるということ。実行日と場所のヒントは残されていたが、ひどく難解であること。そして小日向倫也は謎解きをとても好んでいること。今度こそ知り得る情報を余すことなく語り尽くすと、文太はよりいっそう眉をひそめてから、思いついたように言った。

「確かに難解な話だな。だが、倫也さんが戻ってくる根拠は何なんだ? 話を聞く限りは、湊川に帰ってくると明言されているわけじゃない」

「実行場所に、小日向さんのよく知る場所が指定されているから、かな」

 周吾郎は『富蘭』をひとくち食べた。パリっと焼けたパイ生地のなかに白餡が織り込まれていて、コーヒーと緑茶どちらとも合いそうだな――というのが感想だった。

「思い出の旅行先っていう可能性も捨てきれないけど、手紙の中で湊川高校の名前が出てきている以上、鶴見市のどこかが実行場所だと考えても差し支えないだろう。複数の選択肢を考えられるなら、妥当性が最も高いパターンを選ぶのが賢いやり方だ。定石ってやつだね」

「なるほど……」

 文太は顎をさすった。

「にしても、まったく情報がないってのは厄介だな。小日向倫也……聞いたことのない名前だ。よし、俺も調べてみるとしよう。何かあればすぐに連絡する」

「ありがとうございます。助かります」

「困ったときはお互い様だからな」

「そうだ文太。ちょっとお手洗いを借りるよ」

 返事を待たずに周吾郎は立ち上がる。後ろから文太が声をかけた。

「左の扉を開けたら、右だ」

 ひらひらと手を振って、周吾郎は戸を引く。正面に洗面台があって、横に洗濯機が備え付けられていた。脱衣所で間違いなさそうだ。それで、左右に扉がある。周吾郎は手短に雉撃ちを済ませて、居間に戻る。

「さて、お菓子もいただいたことだし、そろそろおいとましようかな」

「そうですね。今日はありがとうございました」

 春瑚がぺこりと頭を下げると、文太は豪放たる笑みを見せた。

「礼を言われるほどのことはしてないさ。またいつでも来てくれよ」

「……いや、それはやめとこう」

 靴を履きながら、周吾郎はそんなことを言った。背後に立つ文太がどんな表情をしているのか考えると、おかしな気分になった。文太が動揺した調子の声で言う。

「おいおい。なんでまた、そんなことを」

「気味が悪いからだよ」

 周吾郎は振り返って、微笑みを文太に向ける。目元は笑っていなかった。

「なんとなくわかった。昔は家に招くようなことをほとんどしなかった文太が、どちらかというとアウトドア派だった文太が、どうして今日は自分から家に招待したのか。……幾年もの歳月が人を変えることもある。文太の趣向が昔と異なっていることもあるだろうと最初は思ったけど、そうじゃなかった。僕らの認識には致命的なズレがある。そうだろう、文太」

 春瑚はぽかんとした顔で周吾郎を見上げていた。毅然としながらも、視線が俯きがちになっている文太を見て、周吾郎は唇をひと舐めし、確信気味に告げる。

「ここ、お前の家じゃないだろう」

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