10.喪主としての責任
次の日、ささやかな抵抗をデイジーは見せはじめた。気分が悪いと言って部屋から出なくなった。学校に行く気配もなく、朝食の食卓にも顔を出さなかった。その代わりタイプライターの打鍵音だけが聴こえた。
自分たちが出て行かないかぎり、デイジーは部屋から出ないだろう。
「そっとしておきましょう」
呆れたエマが首を横に振ってデイジーを突き放す。デイジーとの喧嘩になるとエマは異常なほど冷静に対応し始める。折れるのはいつだってデイジーだ。原因は末っ子ならではのわがままが大半だから、エマは毎回正しい。
扉越しに声をかけるそぶりも心配するそぶりも見せなかったが、眉間の皺はいつもより寄っていた。支度を淡々を済ませたのち、エマは職場へと急いで出ていった。恋人が送ってくれると言ったから。
「デイジー」
仕事が出かける前に、アルフは引き篭もったデイジーに語りかける。
返事はない。
それは想定内だ。
言葉を続ける。
「夢を持つことに、俺と姉さんは反対していない。……だけどデイジー。簡単に今まで作ってきたものを捨てないでくれ」
おそらくだが。
それでも確信を持ってアルフは告げる。
「後からきっと後悔する」
やっぱり返事は全くなかった。
ヴィオラの納品延期の理由は婚約者リカルドのことだった。
ごめんなさい、と眉尻を下げ、ヴィオラは謝罪ばかりしてしまう。
簡単な理由だ。
故人フランチェスカ・レディヴァッグの喪主リカルド・レディヴァッグが、式に出席しないと言いはじめたのだ。故人の遺志を何よりも尊重するこの国ではあり得ないことであり、葬式を延期するのにもっともな理由だった。喪主という存在はとても大きいのだ。喪主がいなければ死者はあの世へ行くことができないと言われているのだ。代理人という選択肢ももちろんあるが、適用されるのは遺族がいないか、家族に会うことすら許されない死刑囚くらいだ。
理由を真面目に聞いていたヴィクトリカとウォークスも呆れた顔を隠さない。
「今のところ、私とグレイヴァッグ家の人たち総出で説得をしているところなの。そうしたら、あの人ったら──」
いつの間にか愚痴に発展している。
「なんて言ったと思う? 劇の方が大事だって言うのよ! 親不幸にも程があるわ!」
ヴィオラは眉を寄せてため息を吐く。
「ひどいことなんて何もされていないのに。たった一人の母親の葬式を放り出すなんてあんまりでしょう?」
ひどいこと、というのは家庭内暴力や育児放棄のことだろう。ウォークスとヴィクトリカの頷きにヴィオラはどんどんリカルドの愚痴を吐き出していく。もう婚約者というよりも結婚した夫婦のような。もう話題であった葬儀のことについてかけ離れていく。
女性たちの会話は燃え上がり、アルフは食器の片付けと称してキッチンに逃げた。息を吐いて淡々と食器を洗う。
──ひどいことなんて何もされていないのに。
ヴィオラの言葉がこびりつく。
はたしてそうだろうか。
本当に彼は親不孝なのだろうか。
リカルドの顔を思い出す。あの時殴りたい衝動に駆られたが、あの時、冷たい言葉を放った男の表情をよく思い出そうとした。淡白に思えたあの顔は苦しそうではなかったか。とても、ひどく、傷つけているような顔ではなかったか。
「……」
どこか、自分と似ている。
ヴィオラは結局一時間ほど店に滞在した。ほとんどをリカルドへの不満と鬱憤に費やした後、スッキリした面持ちで小さな菫を入れた額縁を買って帰っていった。ただ話の内容はリカルドのことばかりではなかったようだった。階下に戻ってくるととても気まずげに顔を赤らめたウォークスは作業部屋へと逃げ、ヴィクトリカはニマニマとヴィオラとともにアルフと作業部屋を交互に見て耳打ちしあっていた。
いったい何を話したのかは教えてくれず、アルフは早くも工房から出ることになった。
そういえば。
車に乗り込んで一枚の便箋に気づく。鞄にしまい忘れて、そのまま──感謝祭用に使おうと思っていた便箋だ。
姉二人と妹一人に贈ろうと思っていた手紙はすでに内容は決まっている。
「それでいいのか」
自然と口に出た言葉に絶句する。
本当に。
それでいいのか。
いいのか。
悪夢を思い出す。
母が責める。
人殺し。
お前なんて産むんじゃなかった。
違うそんなことはない。
母はそんなことは言わない。
愛情深い人だった。
苦しくても辛くても、子どもたちに少しでも、一秒でも触れて、ともにいようとする人だった。
だが、そうだろうか。
母はこんな自分を許してくれるだろうか。
こんな自分を我が子と愛してくれるだろうか。
「よくない」
アルフは車を走らせる。目的ははっきりとしていた。帰るのではない。会いに行くのだ。
はっきりと意思を持って、選んで、アルフは行動しようと動いた。
アパートメントではなく、ヘブンリー劇場へ。
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