11.ヘブンリー劇場
アルフにとってヘブンリー劇場はあまり縁のない場所だった。一度姉に誘われて観客席に座ったことがある。舞台の上で繰り広げられる物語が妙にハリボテの作り物に見えて仕方なかった。もっとも、幼いアルフにとって、その演目は古典的な悲恋もので理解できなかったことので興味が湧かなかったのは当然と言えば当然だ。遠回しな言い方にちんぷんかんになった挙句、考えるのをやめて寝てしまい、姉をひどく怒らせたのは懐かしい。
以来、劇というものはアルフの中では堅苦しい芸術の枠組みの中に収められている。
夕方のカラムスを雨が濡らす。
どんよりとした雲空は馴染み深いものだ。雨の中を走り抜け、アルフはヘブンリー劇場へとたどり着いた。何度見ても贅沢な作りをしている。
車から降りた後、瞳を細めで劇場の入り口へと小走りするも、入り口には閉館とあった。
がくりと肩を下ろす。無関心さが招いた事態だ。リカルドに会うことは難しいのではないだろうか、と不安が過ぎる。かと言ってそう簡単に帰るのも癪だ。劇場に役者用の出入り口があることをエマから聞いている。そこで出待ちをするファンも多くないという。
小さな期待を持ちつつその場所へと慌てて向かってみると、すでに先客がいた。暗い裏口に近づいていくとその先客が誰であるか鮮明にわかり、アルフはギョッと目を見開いた。
「デイジー?」
「お兄ちゃん? どうしてここに?」
デイジーは傘もささずに冷たい空気に震えていた。引き攣った頬に涙の通った跡が、ひどくかわいそうに見えた。
「どうして泣いて? 誰かに何か言われたのか?」
慌てて詰め寄るとデイジーは首を横に振って一歩後ずさる。伸ばしたアルフの右手は行き場を失ってしまい、下げるかを何度か躊躇った後に引っ込めた。
もしかしたらデイジー自身を泣かせていたのは、アルフかもしれない。エマかもしれない。だが、何も言わずに自分の道を見つけたのだと言い張った妹に、優しくできるほどアルフたちは完璧な人間ではない。
「家に帰りなさい」
努めて冷静に告げるとデイジーは首を振った。
「帰りたくない……」
「どうして?」
「だって…………」
デイジーはチラチラと閉じられた裏口に視線を寄越した。何か用がここにあるのだろうか、とアルフは勘繰る。妹には会いたい誰かがここにいるということになる。
男か、女か。
そう考えると気が気でない。もし俳優でそれもハンサムな優男にデイジーが心奪われていたらアルフはその人物に愛想よく対面することはできないだろう。今すぐあれこれ詰め寄って色々と聞き出したいが、そうするとデイジーが今以上に頑なになってしまうのは明白だ。
どうするべきだろう。
口を開いて何か話しかけようとしても言葉は出てこなかった。
雨音がひどくなってきて慌ててデイジーに傘を傾ける。
「とにかくここにずっといても意味がない。風邪を引いたらきっと姉さんたちが怒る」
「怒られてもいいの……私は諦めたくないだけ」
「どうしてここまで話を聞いてくれないんだ」
「そっちこそ!」
デイジーは涙とも雨ともわからないまま顔を濡らして叫んだ。
「私の話全然聞かないじゃない!」
それは。
答えようとすると裏口の扉が乱暴に開いた。開放されて中でくぐもっていた悲鳴が鮮明に聞こえた。二人で扉へと視線を向ければ、一人の男がこちらに背中を向けて倒れ込んでくる。水飛沫が起こって、アルフとデイジーの足元は完全にびしょ濡れになってしまった。
アルフは強引に唖然とするデイジーを自分の後ろへと追いやり、尻餅をつく男と扉の前に立つ男を交互に見た。
「リカルド……さん?」
尻餅をついて頬を押さえた男があまりにも見覚えのある背格好だったため、アルフは慌てて顔を覗き込んで目を凝らした。髪は乱れ、頬は真っ赤に腫れ上がり、鼻からは血が垂れている。シャツもボタンがいくつか外れていた。リカルドはまさかの人物の登場に目を見開いたが、すぐに顔を逸らして扉の前に立つ男へと睨みつける。
状況的に喧嘩の相手だろう。よく見ればその男の右手は赤く腫れていた。
「ミッチェル、お前は一体いつから俺より偉くなった?」
わなわなと怒りで体を震えながらリカルドが冷ややかに言い放つ。対して男──ミッチェルも怒りを滲ませてリカルドを見下ろした。
「俺は仕事を優先してきた。わかるか? いつだって観客を楽しませ、そして劇団のみんなと一つの劇を作りあげることに心血を注いで、それがお前とできるからこうしてきた。それがこれか? 俺を殴りやがって!」
「母親の葬式を恋人に放り出そうとしている奴がよく言えるな」
「お前もかよ!」
ミッチェルの言葉にリカルドはぺっと唾を吐く。
「みんな、あの人と俺の関係に口を出す! いい加減にしてくれよ! なあ? 親と仲悪いことはそんなにダメか? お前たちはあの人のいいところしか知らないから言えるんだ! ヴィオラも、お前も! あのクソッタレな台本も俺への当てつけなんだろう?」
リカルドは渇いた笑い声を立てて立ち上がる。ふらりとまた倒れそうになったのを、なんとか踏ん張る。アルフが支えようと伸ばした手を躊躇いがちに振り払った。
そしてミッチェルに向かい、両手を広げて芝居がかった抑揚で口を開く。声を張り上げる役者ならではの声量は雨音にかき消されることはない。
「わかっているさ! お前は──お前たちは、俺を悪者にしたいんだろ? あの人の味方ばかりで、俺の話なんて聞こうとしないで頭ごなしに言いやがって! 俺が、あの人を傷つけてばかりだと思ってる、お前たちなんか俺からが縁を切ってやる!」
ミッチェルの後ろからヴィオラが出てきて、悲鳴のような声音でリカルドを呼んだ。それに対してリカルドはひどく失望させた視線を送ってから背中を向けて駐車場へとふらふらと歩き始めた。そんな彼をヴィオラが追おうとしてミッチェルに止められる。他の劇団の人間たちも追うことはせず、呆然と見送るだけだ。
咄嗟にアルフはデイジーの手首を握るとリカルドの後を追った。
「っ……痛い、お兄ちゃん!」
「風邪をひくから戻るぞ」
「いや! やだ!」
「デイジー!」
アルフは堪らず声を張り上げた。びくりとデイジーが震える。
「お前は俺たちが話を聞かないと言ったな? だが最初に話を聞こうとしなかったのはデイジー。お前だよ」
自覚があったのかデイジーは唇を閉じた。瞳は不満げであるが、もう手を離そうとはしなかった。何度もミッチェルの方を振り向いていた気がしたが、アルフは敢えて気づかないふりをした。
駐車場へと戻るとリカルドは公道に座り込んでいた。
「リカルドさん……風邪をひきます」
項垂れていた首が動いてリカルドがアルフを見上げる。
自暴自棄になってそして落ち込んでいる姿が何故か放っておけなかった。
「とりあえず、車に乗ってください。話を聞きたいんです」
彼はポカンと口を開けたが、素直に頷いた。
雨音が強くなり、アルフたちは距離が近い紙花工房へと急いだ。エマへの連絡をするために電話を借りようと思ったのだ。
道中後部座席のリカルドは静かに俯き、助手席のデイジーは窓から外を眺めていた。会話は特に何も出てこず、アルフはそれに身を委ねた。
工房の扉を叩くとウォークスが現れる。アプリコットの瞳が驚いたように丸まった。中へとアルフたちを入れると慌てたようにタオルを持ってきてくれた。
「突然すみません、電話を借りてもいいですか」
こくん、とウォークスが頷いて電話を指差す。
「ありがとうございます」
受話器に手を伸ばした時、背中に何かがもたれかかった気がした。
「お、おい」
静かだったリカルドが慌てたようにアルフの後ろに駆け寄って手を伸ばした。
アルフもウォークスも後ろを見て目を丸くする。
「デイジー!」
リカルドに支えられた妹が真っ青な顔をして体を震わせていた。
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