エマ・ナイチンゲール 五幕目
ナタン・ロンヴェーに訳を話している間、ヴィクトリカはエマの後ろで散らばったラフ画たちを拾っては漁っていた。
「大切な人の誕生日が近づいていて、私、どうしても私の気持ちを伝えたくて──だから、ナタンさん。良いデザインはありませんか? ウサギと猫の……可愛いけれど、派手すぎないもの」
「ないよ、残念ながらね」
「本当に?」
「うん」
ナタンがエマたちの視線から逃げるように顔を机に向けた。あからさまな拒絶と嘘に、エマはひどく傷ついた。この前あんなに仲良くなれたのは、嘘だったのか。それともあれで終わりという関係だったのか。客と店員の垣根を超えてはいけないと重々承知していた。しかし良き友人になれると思っていたのだ。
「ナタンさん、お願いします。私にとってはかけがえのない人なんです」
「ないったらない」
怒っている。
明らかに、怒らせた。
手を握りしめ、泣きそうになるのを堪える。これに賭けているのだ。姉への感謝、弟との距離の縮め方を。それなのに、邪魔をするというのか。
後ろにいたヴィクトリカが「あっ」と声をあげて一枚のデザイン画を横からエマに差し出した。唐突の声に、エマは肩を震わせながらも、デザイン画を受け取り、それに視線を滑らす。
「あっ……」
ウサギと猫の柄だった。ちょっと昔の貴族の衣装を着たウサギと猫が楽器を奏でていたり、ワルツを踊ったりしている。子どもっぽくなく、大人でもいいと思えるものだった。
「ナタンさん、これ、ください」
ナタンに見せると彼はさっきの怒りの表情から焦りに変わった。見られてはいけないものを見つけられた。例えば、親には到底見せられない本をベッド下に隠していたのに、親に見つけられた、そんな感じ。彼は顔を赤くさせる。もう、耳や首にまで朱色の浸透は進み、机から立ち上がってエマの手から奪い取った。
「これはダメ! 絶対、ダメだ!」
「どうして? 素晴らしいものじゃないですか!」
「ボツにしたものだからに決まってるだろ!」
子どもみたいに駄々を捏ねてナタンは机のなかにデザイン画を放り込み、エマとヴィクトリカの背中を強引に押して部屋から追い出した。
「依頼が多くてナーバスになってるんだ、ほっといてくれ!!」
勢いよく扉が閉められ、廊下に取り残される二人。近隣の迷惑を考えた二人は諦めて、近くのカフェーに入った。そのカフェーは女性をターゲットにしたお菓子専門の店で、エマの心に明るさと甘い優しさを与えた。特にホイップの乗ったチョコレートのケーキは心が悶える甘さで、紅茶との相性も良かった。それから少し高めの果物のケーキ。小さくカットされ、鏤められた果物は宝石のように可愛くて、必死に記憶に焼き付けようと凝視したりした。
夕食なんていらないぐらい食べた。
「どうしたのかしらね、ナタンったら、珍しい」
十皿目のタルトにフォークを突き刺してヴィクトリカが愚痴る。
「いつもなら、喜んでデザインしてくれるし、早いのよ、あいつ」
「……忙しいから、かも」
ナタンの強硬な姿勢を思い出し、エマは喉奥に熱を感じた。今まで感じたことのない、もどかしくて切なく熱い。
「でも、でも、良い人なのよ、シトレーさんのこと教えてくれたし、私の背中を押してくれた」
あまりにも切ない声に、エマ自身ハッと目を見開いた。ヴィクトリカを見れば、彼女も目を丸めてエマを見ている。
──やだ、私。
この感情を理解した途端、ポロポロと大粒の涙が落ちる。きっと報われないものだ。店員が客に、特別な感情を持っているだなんて、間違っている。
彼は友人で。
憧れの人で。
羨望している相手で。
ちょっとした甘い時間は終わってしまった。ケーキを買って、足早にカフェーを出た。泣いているエマを物好きが何事かと見つめてくるが、それをヴィクトリカが番犬の如く視線で威嚇する。工房に戻ってきた時、ウォークスが作業机に向かっていた。どうやらアルフは一度起きて、再び寝てしまったらしい。
集中力が高いのか、エマとヴィクトリカの帰りに気づいたのは、ヴィクトリカがウォークスの肩を叩いた時だった。大きく体が震えて、ヴィクトリカを見上げたのち、エマを見て会釈する。店を閉じたあと、ヴィクトリカは上の階に行き、ウォークスはエマと店内で向き合った。
ナタンのことを告げれば、不思議そうに首を傾げてヴィクトリカと同じ、珍しいと不思議がった。
『いったい、どうしてでしょうか。ナタンさまらしく、ありませんね。エマさまが失礼なことをする方ではないと分かっているので、粗相をしたわけではないのでしょう?』
「してないわ。でも、どうしてかしら……あの人、常連で、よく話したりしてるの。この前だって、ご飯も食べに行ったのよ?」
『きっと、そのデザイン画は、ナタンさまの大切なものなのでしょうね』
「それで意地になってるってこと?」
『そこまでは分かりかねます。ですが、知りたいのではありませんか、エマさまは、知らないままでいることが辛いのではありませんか?』
そっと、ハンカチがエマの目元にあてられる。トントン、と優しく涙を拭い、白湯を差し出した。思わずエマは、彼女に父の面影を見出した。
よく、こんな感じで涙を拭いてくれた。
『きっとこのままでは、気まずいままです。それなら、どうしてなのか、知った方が良いと思います』
「そう、ね。ありがと……。明日、行ってみる」
白湯は温かく、心まで熱くさせた。
まだ、時間はあるのだ。
アルフを置いて、エマはアパートメントに帰った。デイジーがとてもひもじいひもじいと繰り返しながら台所にいたのが、恐ろしくて涙が吹っ飛んだ。幽霊などオカルトじみた雰囲気は苦手だ。お腹を空かせた末っ子のために、エマは急いで夕食を作った。
「お姉ちゃん、お兄ちゃんは?」
アルフはデイジーをよく甘やかすので、末っ子に一番懐かれている。本当はしっかりしなさいと言いたいが、我慢だ。
「体調崩して倒れちゃってるから、良いところで寝てるわ」
「倒れたの?」
「ええ」
「すぐ元気になるかな?」
「なるわよ」
「元気になったら、お兄ちゃんはお姉ちゃんとも仲良くなれる?」
縋るような瞳にエマはすぐに返事することが出来なった。
「──大丈夫よ」
でも確かに、鼓舞するように、エマは頷いた。
さあ、これからだ。
次の日、エマは仕事帰りにナタンのアパートメントを目指した。大丈夫よ、と何度も言い聞かせて。リスの可愛いドアノッカーを鳴らす。
絶対に負けない。
何度だって聞いてやる。自分は今、自分から進んで人と関わらなくてはいけないのだ。
エマの戦いがはじまった。
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