エマ・ナイチンゲール 六幕目
──どうしてこうなっちゃったの?
エマはナタンの部屋のなかに立っている。箒を持って。
職人が作った箒は安物よりも掃き心地がいいので、主婦にとって、家事をする人間にとって憧れの掃除道具である。長い柄を握り、散り屑を掃き集めればほらあっという間。いっきに集まってゴミ箱行きだ。
いや、そうじゃない。そういう場合ではない。
我に返ってナタンを見た。相変わらず机に向かう彼は、煙草の吸い殻を大量に生産して煙草を苦手としているエマを近づけさせないでいる。
ナタンを説得しようとして数日。姉の誕生日と帰省はもう明日だ。
全くそのデザイン画の譲渡を認めてくれない。こうなったら意地でも迫るしかない。そう考えたエマは、ナタンの生活にむりやり割り込んだ。仕事終わりに訪れ、部屋の掃除に、食事の支度、風呂の用意。部屋に慣れて来たおかげで、床を埋め尽くす紙は無くなり、足の踏み場が多くなった。
とても喜ばしいことなのだが、これだけでエマが満足するわけがない。
目的は、ウサギと猫のデザイン画だ。
だから我慢して来たのだ。嫌がらせのごとく、匂いのきつい煙草や香水を使われても。
「ナタンさん、いい加減、譲渡できない理由を教えてくれませんか?」
痺れをきらして話しかける。ナタンの肩がぴく、と動いたが、全くこちらを見ることはない。
「どうしても、必要なんです。姉の、誕生日に、間に合わせたくて」
目に煙が当たってひりひりする。耐えられなくなって目尻から涙が精製される。
「っ──なに、か、私、何かしでかしたでしょうか」
震える声に、ナタンがやっと振り向いた。
つんけんな顔が、驚愕へ、焦りへ、変わる。ナタンが立ち上がった拍子に椅子は床と接吻した。
左手に持っていた煙草を乱雑に灰皿に押し付け、エマへと手を伸ばして寸でのところで止まる。その時のナタンの表情がアルフに重なった。人の顔色を伺って、何も言えなくて、じっと嵐が去るのを待つ幼い子どものよう。
──僕はね、少し前までこの嗜好を家族から馬鹿にされてた。
変な気分だ。さっきまで弟に重ねていたのに。
エマは目を見開いてナタンを見つめた。
おかしい。
本当に変だ。
知らないのに。
少し昔のナタンを見ているかのようだ。
昔のあなたは、そうだったの?
そんな顔で家族を見ていたの?
笑われないか、嫌われないか、そんな顔で怯えていたのだろうか。今、自分に向けて、そんな顔をしているのは、自惚れてもいいのだろうか。
相変わらず、ナタンの表情は、くしゃくしゃに、今にも諦めてしまうかもしれない、苦渋なものだった。
「私、何かしてしまいましたか」
「ちが──」
「でも!」
唇から大きな声が漏れる。
激情に走ってはいけない。ナタンの肩が震えるのを見て、エマはなんとか抑えた。胸の辺りに両手を重ね、心臓を掴むように抑える。
「……でも、いつもは、快く、お渡しすると聞きました……」
「それは……」
「それなのに、下さらないと云うことは、やっぱり、何かしてしまったんでしょうか」
「違う!」
ナタンの両手がエマの肩を包んだ。痛いぐらいに掴んで、必死にこちらを見下ろしている。
「違う、違うんだ……っ。あれは、昔の……そう、昔の」
声量がだんだん小さくなってナタンはエマの肩から手を離した。手が離れたところが、寒い。
足下にデザイン画の紙が散らばっているのにも、関わらず、ナタンはしゃがみ込んで俯いた。倣うように追随して彼の顔を覗き込む。幼い、迷子のように瞳を震わせていた。
「最初の作品なんだ、あれは……でも、笑われたものなんだ」
幼少から、少年へ、体が変わる微妙な頃。
ナタンはデザイナーを夢見ていた。それもとびきり華やかなやつを。
とびきり可愛いウサギと猫の可愛いけれど、大人でもいいと思えるものを。いけるのではないかと思っていた。そう考えるぐらい、自信作だったのだ。
学校の友人にそのスケッチを見られたことで、自信はがらがらと崩れた。
「笑われたんだ。女々しいもの描いてる頭おかしなやつって」
エマにも覚えがある。好きなものを、好きなことを、外見と比較されて第三者に否定されるという理不尽を、されたことがある。
男だから。
似合わないから。
他人にとってはたったそれだけのことだろう。当人はそうじゃない。自分が否定されているかのような孤独感が支配して口を噤み、何も言えなくなってしまう。
ナタンが今にも泣きそうに顔を歪ませた。
「……親に相談したけれど、僕が悪いって、さ」
「ひどいわ……ナタンさんは、悪くない!」
お願い、泣かないで。
今度はエマがナタンの肩を掴んでいた。
「悪くない。ナタンさんは悪くないわ。好きなものは、好きで止まらないもの……お願い、泣かないで」
「君の方がひどいよ──」
泣いているのは、自分だった。手をあてると頬が濡れていることに気づいた。
「なんで、泣いてるんだい」
「……それは」
口ごもって、言葉が上手く紡げない。
「──こう、見えて、私、可愛いものが好きなの」
きつい吊り目。誰が見ても、可愛いものが好きとは思えないほどの大人の顔。告解のように吐き出した言葉に、ナタンは目を見開いた。それからすぐ柔らかくなって、三日月に細くなる。
「知っていたよ」
分かっていたよ、可愛いと思ってた。
エマ・ナイチンゲール。
気づいたら二人座り込んで抱きしめあって、泣いていた。
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