エマ・ナイチンゲール 終幕目

 泣き終わったあと、ナタンはデザイン画を印刷した紙をエマに渡した。きょとんとする。目の周りは腫れて、視界が悪いせいか、欲しかったデザイン画であることに気づくまで時間がかかった。


「これって……!」


 くれないんじゃなかったのか。

 視線を寄せると同じく目の周りを腫らしたナタンが、申し訳無さそうに微笑んだ。


「実は、最初に君が来たあと、印刷所に行ったんだ」


 最初に来たあと、ということは、はじめてナタンの部屋に来て、追い返されたあとということだろうか。そのあとに、印刷会社に向かったというのか。だったらどうして渡してくれなかったのだろう。


「すまない……」


 渡すタイミングが、ナタンには分からなかった。


「今までありがとう」

「どうして、そんなこと言うんですか」


 まるでもう会えないみたいに。

 申し訳ないと思っているのではないか。だとしたら、とエマはナタンを睨み上げた。びくりと逃げるように体を引いた彼の足に、思いきり自身の足を乗せた。


「いたっ」


 ヒールの部分を練り込ませ、パッと離す。


「これであいこです」


 涙目のナタンが間抜けな返事をする。

 大事にデザイン画を抱え込んで腫れぼったい笑みを浮かべた。帰ったら冷やさなくては。


「勝手に、お別れするのは、止めてください」


 まだ伝えてないのよ。大事なことを。

 言ってしまいそうになって慌ててエマは口を噤み、足早に玄関へ向かった。けれども、このままだと生意気な女になってしまうのではないか。立ち止まり、振り向くと、ナタンは踏まれた足を気にしながらエマを見つめていた。目が合うと、そこに、炎に似た熱が籠るのをエマは感じた。

 暖炉の火よりも激しくて温かい。


「──今度、また二人で、行きましょう、ご飯」


 自然と言葉が出ていた。ナタンの目から喜色が現れ、三日月に細くなって笑う。胸の高まりが最高潮に達しながらも、エマは静かに微笑み返してナタンの部屋をあとにした。

 嗚呼。

 嗚呼……!

 熱が、顔から体中を駆け巡る。硝子に映る自分の顔は、酔っぱらいだと勘違いしてしまいそうなほど、赤かった。

 いけない、自分はこれをウォークスに届けないと行けない。踊る心を叱咤して、エマは紙花の工房へ急いだ。




 あれから、一年以上は経ったと思う。ウォークス・シトレーを通じて、エマは家族愛と新しい恋に恵まれた。今だってナタンとの交流は途絶えていないし、デートは数えきれないほどしている。文通もはじめて、手紙を収納する箱は大きいものにした。


 ねえ、ウォークス。

 私、あなたに感謝しないといけない。


 定期的に、エマはウォークスに手紙を書く。現在、彼女からの返事の書簡は未だにない。


 それと謝罪もしなくちゃいけないわ。

 あの時、私、あなたに嫉妬してた。

 なんで出会ったばかりのあなたに、アルフが懐くのか。いまでも不思議なのよ。

 でも、そうね。私が思うに、あなたとアルフって似ているわ。どこか、怪我をしている感じが。

 今、どこで何をしているの?

 お店にいないのは、どうして?

 アルフはずっとあなたのお店に入り浸っているの。帰ってきてあげて。


 伝えたいことがたくさんある。

 エマは万年筆を握る手を止めて窓から外をぼんやりと眺めた。エピストゥラ大公国は今日も雨だ。横殴りの雨は久しぶりで、まるで泣いているかのようだった。

 テーブルの上に佇むランプの横には、写真が一枚飾られている。アウラが花嫁衣装を着て、花婿衣装の男性と仲良く並んで幸せに微笑んでいた。


 アウラ姉さん、昔の恋人に会えたのよ。生きてたの。偶然、姉さんの勤める病院に怪我人として運ばれて。それから恋人のお母さまが謝罪と感謝に来て、結婚を許してくれたのよ。

 素敵な結婚式だった。

 あなたを呼びたかったわ。


 ここ数ヶ月、国は喪に服している。

 愛国心の深い者は未だに喪服で泣きそうな顔でカラムスを練り歩く。それが視界に入ってエマはカーテンを閉めた。その姿が、アルフと重なったから。


 あなたが消えて、アルフはまた心を閉ざしたみたい。



 どうして、いないの?

 ねえ。



 アルフのこと、あなたなら大丈夫だと思ったのよ。


 彼女が作ったアイリスの花は美しく咲いて、エマに勇気をくれる。

 冷えた指先を温めようと手を重ね、摩る。目を伏せてエマは呟いた。きっとこの呟きに返答してくる者はいない。



 ねえ、どこにいるの?

 ウォークス・シトレー。

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