エマ・ナイチンゲール 四幕目

 震える手が吸い寄せられるように、ピストルを取った。見た目は軽いのに、ずっしりと重くて、怖い。このピストルには良い思い出は一つもない。人を殺すために作られたのだから当たり前のことなのだろうが。

 このピストルをエマは向けられたことがある。

 寒い冬のときだった。例年を超える積雪はアルフの戦争の記憶を引き起こしていた。出兵先の雪原の銃撃戦。寒さで凍えるアルフに毛布をかけようとした時だ。エマの気配に気づいたアルフは、銃口を向けたのだ。躊躇いもなく、震えながら、まるで怖いものを見るかのように、アルフの顔は怯えていた。瞳はエマを映していなかった。違う、誰かを見ていた。

 父が気づいてアルフを落ち着かせたが、この出来事がきっかけで、アルフとの距離はとても遠のいた。


──こんなの、まだ持ってたの。


 唇を噛み締める。まずい口紅の味がじんわりと舌に侵入した。

 安全装置は簡単に外せた。

 拳銃の引き金へ指を伸ばした、それを、横から手が伸びて止まった。かちり。青白い手が、ピストルの安全装置をこれまた簡単にもとに戻した。驚いて視線をあげれば、ウォークスは非難がましくエマを見つめていた。ソッとエマから没収して、トランクの奥へとねじ込む。

 あまりにも慣れた手つきで扱うものだから、エマは絶句して抵抗もしなかった。

 ヴィクトリカが用意してくれたタイプライターを操作し、ウォークスはエマに話しかける。


『お薬は見つかりましたか』

「……え、ええ。あったわ」

『他のお家族に連絡はされますか? 電話はレジのカウンターに設置してあります』

「別に、しなくても、大丈夫よ」


 無言。

 会話が終了した気まずさに、エマはトランクを閉めた。


「……ねえ、なんであんたなの?」


 醜い声が出た。それでも自分でも止められないほど、嫉妬していた。目の前の、自分よりも、全く美人でも、取り柄のない地味な女に。


「喋れないくせに」


 失礼な言葉を、言っていることは分かってる。


「美人でも、家族でもないのに、なんで、あなたなの……」


 ウォークスは何も分からないと無言でエマを見つめていた。

 エマはしゃがみ込んで、膝を抱えた。掃き残した紙屑が見える。少しして、肩に一枚の毛布が掛けられる。見上げれば、ウォークスが困った顔で、労る表情で見下ろしていた。

 酷いことを言われたのに、よく親切にできるものだ。


「……この前はお店で、変な雰囲気にしてごめんなさい……さっきも、ごめん」


 首を横に振る雰囲気がした。


「私、アルフとは折り合いが上手くないの。どんなに、したって、アルフは私を他人みたいに扱うし、いつも、顔色を伺うの」


 気づけばエマはウォークスに全部を話していた。何故だか、この女に話せば、楽になるような気がして。


「家族なのに。この前ここに来たときだってそう。自分の意見言わないのよ、全く。姉さんがバラとチューリップ好きじゃないいし、似合わないの知ってるくせに。ウサギや猫が好きな可愛い姉さんなの。……姉さんはね、世界一すごい人なの。妹の私が言うのもなんだけど、華やかな顔じゃなくて、優しい感じで、今、看護婦なのよ」


 昔、姉には好きな人がいた。でも片親で、看護婦という職業婦人をよく思わない古い考えを持つ女が恋人の母親で、結局別れたこと。元恋人は未帰還兵になってしまい、一生独身でいようとする姉。


「別に、結婚が全員の幸せだとは思ってないわ……でも、でも、私、姉さんが私たちのことを優先しすぎて、一人で過ごすのかなって思うと辛いの。アルフだって。……嬉しかったの。アルフが死なないでくれたこと。だって家族なんだもの。でも、それなのに、私の思うようにならない。怒ってばかり……」


 怒っているばかりじゃダメなのは、分かっている。伝えないといけないのも。


「アルフに、ごめんなさいって伝えたいの、私は。甘えてほしいって。デイジーも、姉さんも、きっと頼って欲しいって思ってる。顔色ばかり伺ってないで、家族として受け入れたいの」


 自分勝手に期待している。そして失望している。弟に。


 カタン。

 カタン。カタン。


 キーボードの打つ音。暫くしてカーボン紙が目の前に渡される。


『エマさまは、アルフさまのことを大事に思っているのですね。家族として、姉として、支えたいのですね。とても素敵です』

「素敵、なんかじゃないわ。私、ずっと、待ってるだけなのよ」

『では、一歩、踏み出したいのですね?』


 待ってるばかりじゃいけない。

 アルフがこっちに来てくれると期待してばかりではいけないのだ。


『お手伝いします。私に、そのお手伝いをさせて下さい』


 真摯な瞳に、言葉に、エマは頷いた。


「任せるわ」


 少しだけ、ウォークスの人となりが分かった気がした。彼女はお人好しなのだ。さっきまで罵声を掛けられていたのに、その人物に、家族の問題解決の手伝いを申し出ようとするなんて。

 それでもエマは、話して良かったと思っている。

 アウラに贈る花も、良いものがあるとウォークスは伝えてくれた。どんな花かは、今は秘密だと唇に人差し指をさして笑った。意外とお茶目で可愛いところがあるものだ。


『エマさまにお願いがあります。商品の包装紙を選んで下さいませんか』


 包装紙が入れられた棚をヴィクトリカに見せてもらった。どれも素敵だが、どれも、アウラが好きそうなものがない。首を横に振るとヴィクトリカが知り合いのデザイナーがデザイン画を持っているかもしれない、と教えてくれた。

 案内してもらったのは、近くのアパートメント。アルフとウォークスを置いていくのは不安だったが、彼女は大人しく座って手を振って見送った。あの生活能力のない、二人のせいで店などは無事にいてくれるだろうか。

 私、店員じゃないんだけど、心配。


「大丈夫よ、多分」


 ヴィクトリカになんの慰めにもならないフォローをされる。

 アパートメントの三階の部屋の扉を、ヴィクトリカはノックも無しに開けた。開け放たれた空間に、足の踏み場はなかった。ぐしゃぐしゃだったり、着色がひどかったり、破れた紙が床を埋め尽くしている。壁にはメモや何かしらのデザイン画が張られてお洒落な壁紙を台無しにしていた。思わず目眩がした。

 酷く、酷くデジャヴを感じる──。

 この魔窟のような部屋にも、張られたデザイン画にも。

 配色とよく使われる曲線のモチーフ。間違いない、これは、ヘブンリー劇場のポスターのラフ、そして戯曲の挿し絵。

 まさか、ここにいるヴィクトリカの知り合いのデザイナーというのは。


 我が物顔で部屋のなかに入っていくヴィクトリカの後ろを、恐る恐るエマは入っていく。奥に行くほど、ゴミの散りようは酷くなっていく。まるで紙の積雪だ。

 頭を掻く細身の男が一人。

 やはり。エマはその男の名前を呼んだ。


「ナタン……?」

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