エマ・ナイチンゲール 三幕目

 ナタンに背中を押されるようにして、エマは工房にいた。

 最初は行こうか迷っていたが、ナタンの食事の日からほぼ一週間アルフと話していない。必要最低限な会話ぐらいで、ついには自分たちのことを心配したアウラから手紙がきた。朝食にアルフから手紙の内容を聞かされ。顔から火が出そうになった。また、今日なんて仮縫いでの立ち会いに来たナタンにまだ行ってなかったのか、と呆れられる始末。

 勇気を持って店に入ったものの、全く喋らないウォークスとソファの上で二人きりの空間に睨みっこをはじめてしまっている。ウォークスは戸惑いながらも、長い前髪から覗くアプリコット色の瞳を真っ直ぐエマに向けていた。

 ヴィクトリカの姿を捜せども、彼女の姿はない。察したウォークスが買い出しに行ったと伝えてくれたが、はあそうですか、と返事して短い会話が終了した。


『本日は』


 会話を広げようとしたウォークスがタイプライターのキーボードを打つ。

 あ、なんか、落ち着くな。

 ほう、とエマはその音に耳を澄ました。目を細めて聞き入っていた、時だった。工房の扉が勢いよく、乱暴に開けられた。いったいなんだ、と見れば、弟のアルフが真っ青な顔で立っていた。


「アルフ!」


 エマは立ち上がる。それと同時にアルフは近くのテーブルにぶつかった。衝撃で高価な花瓶が大きな音を立てて割れた。荒い呼吸をしながらアルフはその場でしゃがみ込んでしまう。

 この光景にエマは硬直した。

 発作だ。それも久しぶりの激しいもの。

 火山の噴火のように突然、嫌な思い出が現実に引き戻してやってくる、亡霊のようなものだと医者から聞いた。しかも、祈りなんて効かない、神様など通用しない。質の悪い悪霊だ。

 アルフは誰かを捜しているように髪をくしゃくしゃに乱しながら視線をあちこちに回している。エマの存在に全く気づきやしない。


 こういう時、自分はどうしたらいい?


 自分なんか見ていない。

 頼ってくれない。

 甘えてくれない。

 アルフにとって、私は。


──家族じゃないんだろうか。


 ぼんやりとしているうちに、ウォークスが動いていた。ソファから立ち上がり、幼子のように震えるアルフを抱きしめていた。


「──!」


 雷の衝撃。まさにそんな衝撃を、胸にエマは抱える。

 だって、あの、あんな、アルフの、安心しきった顔なんて──一度も見たことがない。ウォークスの顔を見てホッと息を吐いた音が鮮明に聞こえた。

 はじめて会った人なのに。

 負けた気分だ。ひどく悔しい。

 安堵した顔でウォークスの腕のなかで、アルフは意識を失っている。ウォークスはゆっくりとアルフの両脇を持ち、引きずり、どこかへ運ぼうとする。


「どうするつもりなのっ!」


 どこか遠くへ連れて行かれるのでは、と思わずエマはウォークスの肩を掴んだ。

 彼女は目を瞬き、エマを見つめた。そして視線を店の奥へ続くであろう扉へ移した。それを見てエマは扉を開ける。


「……なにこれ」


 思わず唖然とした声が漏れた。

 絵の具の匂いがした。臭いともいい匂いとも思えない、複雑な匂い。部屋のなかはとても、口が裂けても綺麗だねなんて言えないぐらい汚かった。作業部屋と居住スペースが一つの部屋にまとめられ、高級そうな家具たちの足下には、紙屑やら潰れてしまった絵の具のチューブまで落ちている。衣服は乱雑にベッドの近くに投げられており、下着まであった。

 部屋に入って唖然としているエマの横をウォークスがアルフを引き摺ってベッドに投げた。それでも全く起きやしないアルフに呆れてしまう。


「って、ダメでしょう!!」


 エマは一喝してウォークスに詰め寄った。びくりと肩を震わしてウォークスは戸惑っている。いったい何に怒っているのか、分からない、と本気で言いたげに。

 腰に手を当てて深呼吸。


「なんでこんなに汚いの!」


 え、何が?


 アプリコットの瞳がそう語ってエマを見返していた。


 まさか、無自覚なのか。エマは愕然とするが、すぐに我を取り戻し、ウォークスたちを放置することにした。

 ベッドの足下に掛けられた下着を含む衣服を近くのクローゼットに押し込む。引っ張り出され、塔の如く積まれた本を適当に本棚に入れ、床に落ちている紙屑たちを箒でかき集めて屑籠に捨てる。勿論窓も開け放つ。雨避けがちゃんとあるので雨水が入って来ることはないだろう。

 足の踏み場が増えたところで、エマはウォークスが何をしているのか見た。アルフの方を向いて何か、している。


「何してるの?」


 箒を置いて見に行くと、なんと、弟がウォークスのワンピースドレスの裾を握りしめていた。

 なんて大胆な。弟の女性関係は知らないが、恋人がいないのははっきり分かる。

 寝顔を見るが、腹が立つほど穏やかである。ウォークスが必死に右手の指を外してみようとするが、強く握りしめており、なかなかできない。エマも加勢するが、流石兵役をしていただけはある。びくともしないし、起きない。

 なんでこうも起きないのか。

 諦めたエマは椅子を彼女に寄せた。


「座ってなさいよ、どうせ何も出来ないでしょ」


 エマの本能が、彼女に箒を持たせてはいけないと訴えている。ウォークスは首を傾げながら椅子に座り、時折アルフを、時折エマを見ながら時間が過ぎるのを待った。手持ち無沙汰になった彼女はアルフの右手から逃れることにチャレンジしては挫折して、困ったようにエマを見る。それを無視して黙々と掃除をした。

 掃除を終えた頃にヴィクトリカが帰ってきた。客人に何故掃除をさせているのか、とウォークスを叱りつけたあと、慌てて店内の割れた花瓶の片づけに走った。

 その時、


「箒を持たせなかったのは正解だわ」と全く嬉しくもないことを褒められた。


 アルフのトランクを受け取り、エマは安定剤があることを思い出す。起きた時に飲ませたら良いかもしれない。大きなベッドの足下にトランクを広げて安定剤を捜す。わざとぶつけても、やはり弟は起きなかった。

 丁寧に器用に教材や筆記具、雨に濡れてしまったときの着替えを放り出す。

 奥から顔を出したのは、隠すように仕舞われた、安定剤とエマの手にも収まりそうな凶悪なピストルだった。

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