幸せがやってくる

1.狂犬の夢

 アルフ・ナイチンゲールは戦場の真ん中に立っていた。年は十二になったばかり。

 適当にしつらえたぶかぶかの軍服。真っ白に染まった土ぼこりまみれの髪、日に焼け、泥を塗りたくった顔。

 何重にもまくった袖から覗く豆や擦り傷まみれの少年の手には、鈍く白く光る刃のついた歩兵銃がひどくしっかりと収まっている。

 幼い目に映るのは、死。

 死。

 死。

 周囲は多くの死で染まっていた。不吉な煙があちこちで天高く昇っては空を鈍色に染め、硝煙弾雨の音色が響く。風が生臭い鉄錆にも似た血を運んでは土を、木々を、建物を穢した。


 アルフの足下には頭部が崩れた少年が横たわっていた。赤黒く汚れた軍服はアルフと同じもので、体格からして年は近しい。


「ジーク!」


 侵蝕する血溜まりを踏み、倒れた戦友の体を揺さぶった。生きている時の特有の温かさはどこにもない。


「っ!」


 抱きあげて見た戦友の顔は、生前の面影を残さずにひどくひしゃげていた。

 最新式の恐ろしい弾丸だとアルフは気づいた。肉に入ったソレは暴れ回り、傷を広げるというモノ。その恐ろしさから通称死神の果実と呼ばれる。

 眼球と肉片、脳みその一部が戦友の頭から零れている。

 幸いなのは、脳幹に着弾したことによる即死だということ。かろうじて残った口もとは笑みをつくっていた。

 いい奴だった。アルフは彼との過去を振り返る。

 配属された小隊のなかで一番年齢が近く、父以外が女ばかりの家庭で育ったアルフにとって新鮮な存在だった。たったひとつかふたつほどの年の差だというのに、


『俺はお前の兄貴分だ』

『だからお前のこと、守ってやるよ』


 と言い張った彼は常にアルフの盾になった。そして今、絶命した。


『置いていくな』


 それが彼の最後の言葉だった。苦笑混じりに言って、アルフを追いかけて追いこした。そして悪魔の果実に殺された。

 もし、いつもの通りに彼が盾になろうとすることを止めていたら、撃たれていたのはアルフだったかもしれない。

 普通に二人一緒になって生還するのだと思っていたのに。帰還して、家族と会って、紹介し合ってそれからを親友としての関係が続いていたかもしれないのに。


「当たった!」


 場に似合わない声が聞こえた。


「頭だから十点だろ?」

「でも違う的じゃないか」

「いやいや。結局は頭に当たっているから十点。結果は一緒。そうだろ?」

「分かったよ、仕方ねえな」


 ははは。


 乾いた軽薄な嗤い声。

 確かにアルフの耳に届いた。彼らは戦友を何と言っただろうか。


 的。


 そう言った。


 十点。


 それも言った。


──何故?


 アルフの思考は「何故?」で埋め尽くされた。


 いい奴だった。

 世話焼きで、自分よりもしっかり者で兄貴分で。

 それから。


 それから、大事な親友だった。


 心は凍えたかというと苦しいほど燃えた。

 真っ赤に滲み、黒く疼いた怒りは青く澄んだ瞳を支配し、唇を震わした。奴らよりもアルフはひどく高揚していた。

 彼らがしているのは戦争ではなく、ただの射的遊技ゲームだ。

 頭に当てたら十点。心臓も然り。他はそれぞれ三点。

 そんなお遊びのために親友は殺されたのか。ふざけるな。


 ふざけるな!


 彼らの次の的はアルフになった。数発の銃弾が放たれた。地面、戦友の死体、アルフのボサボサの髪の毛の先に着弾したり、掠めたりした。過敏に研ぎすまされたアルフの耳に、舌打ちやつまらない、などと言ったふざけた音が聞こえた。

 それが怒りを完全に放つトリガーだった。

 ただの的が、凶悪な兵器に変わる。肺の中にある全ての空気を吐き出すように吠えた。

 突然の咆哮に、アルフの近くにいた味方も敵も、時間が止まったかのように少年を見た。そこに立つ少年の顔に幼さは消え、顔を凶悪に一瞬歪ませたあと、狂ったように走り出す。目指す先は勿論、戦友を殺した隊だ。ようやく動けるようになった彼らは慌てて銃口を向けてトリガーを引いた。冷静を取り戻そうとしたのだろうが、銃弾は幼い体躯に当たることもなく、掠めても彼は止まらなかった。それどころか逆に早さを増していく。あっという間に距離を詰められてアルフの銃弾の餌食になった。

 呆気なく頭から血を噴いて倒れた。

 ただ一人を残して。戦友を撃ち殺した男は手から銃を滑り落して座り込んだ。

 ようやく思い出したのだろう。顔は青くなり、立派な軍服のズボンはアンモニアの臭いで仄かに濡れてしまった。

 熱に浮かれた夢から覚めたみたいに、思い出した。

 ここが戦場であることを。

 狂犬という化け物がいることを。

 立場は逆転され、歩兵銃の銃口につけられた刃の先が男の喉を僅かな隙間から捉えていた。男は両手を震えながら上げた。自分よりも幼い小さくて弱いはずの相手だというのに、死神に見えて恐ろしい。


「た──助けて、くれ」


 やっと口に出せた命乞いの言葉は裏返ってしまった。


「嫌だ」


 あっさりと拒否され、男の顔は更に情けなくなった。それでも許さなかった。アルフの顔は険しくなっていく。


「たのっ、頼む! 見逃してくれ! か、家族がいるんだ!」


 男はポケットから写真を取り出した。白黒の長方形の紙に、父らしき男、兄らしき青年、母らしき女、妹らしき少女が幸せそうに男を囲んで写っていた。本当に幸せそうだ。栄養失調で痩せている者など一人もいない。白黒でも身につけている服は上等で、寒さに凍えたことなどないのだろう。

 お前たちは良いよな。

 アルフは羨望と妬みを写真に向けた。


「ふざけるな」


 思ったよりも低い声が出た。


「何が家族だ! お前が撃って十点だなんだって言われたアイツにもいるんだよ!」


 結婚を間近に控えた優しい姉が一人、幼い弟が一人。両親は貧しさのあまり、普通なら市民でも買えるはずの薬を買えないまま、風邪を悪化させて死んでしまった。兵に志願したら自分の食費が浮いて姉と弟を助けられる。

 そう話す戦友はとても誇らしい横顔をしていた。

 戦友の誇らしい姿を壊したのはコイツだ。

 男は怯えた瞳を後悔に染めた。少年の怒りが何たるかを理解した。心があり、同じように家族がいるということを知った。

 もう今更すぎた。

 アルフに迷いは消えていた。元からなかったかもしれないが。


「死ね」


 男の眉間に銃口を宛てがう。


「やめ──」


 止めてくれ。


 その言葉を完成させる前に、アルフはトリガーを引いた。

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