2.暖かな朝

 返り血を浴びる前に、アルフは目を覚ましてベッドから起きあがった。寝汗で濡れた枕の下からナイフを素早い手つきで取り出し、周囲を睨みつける。

 真っ白の壁紙とカーテンのない上げ下げの窓。そこから朝日が入りこむ。簡素なベッドの他にある家具は、ペン傷と幼い落書きのあるライティングビューロー、古い型のタイプライターの入った鞄が置かれた椅子。必要最低限の服が収まっているクローゼットの隣には、二丁の歩兵銃が大人しくも禍々しさを放ちながら置かれている。銃弾は入っていないが息が詰まりそうなほど、綺麗に手入れされていた。アルフが持つナイフも鋭く研ぎすまされている。


 どくん。


 高鳴る胸を空いている左手でおさえる。白いシャツに新しく皺がつくられる。


 どくん。


 周囲を見て変化がないか、敵がいないか、執拗に確認して耳を隠す。

 銃声なし。

 爆発音なし。

 悲鳴なし。


 穏やかな生活音、賑やかな都会の喧噪、最近、この近くまで長く走ることになった路面電車にはしゃぐ幼い声も聴こえた。

 ここが戦場でないことは明確だった。

 母国エピストゥラ大公国の首都カラムス。片隅のアパートメントの一室が今、アルフがいる場所だ。

 心臓は落ち着きを取り戻し、緊張の糸が切れたようにナイフを下ろして枕の下に戻した。


「お兄ちゃん」


 飾り気のない扉がノックされる。同時に自分を気遣う優しい声に、眉間の皺が薄くなった。

 声の主は妹のデイジーだ。


「お兄ちゃん、起きた?」

「起きてるよ」


 できるだけ妹を怖がらせないように。


「着替えてくる。もうご飯はできているんだろ」

「うん。それでお寝坊さんのお兄ちゃんを呼んできてって、エマお姉ちゃんが」


 エマはデイジーとアルフの姉の一人。今朝食の用意をしてくれているのは彼女だ。ダイニングルームから漂う香ばしい匂いがした。

 やれやれ。アルフは苦笑してベッドから降りる。相変わらず子どものような扱いをする姉には困ったものだ。

 汗まみれの寝間着を脱ぎ捨て、クローゼットから仕事着として姉二人から送られたブルーのカッターシャツと濃い黒のスラックスを取り出す。古傷だらけの体を隠すように着たあと部屋を出る。


「デイジー? まだいたのか」


 腕を組みながらデイジーが待っていた。


「まだって何よー。可愛い妹がここにいちゃいけないの?」


 アルフの言葉に頬を膨らます妹の愛らしい仕草に苦笑して、デイジーの癖のあるブラウンの頭を撫でようとした。が、その直後、デイジーがアルフに平らな台底のヘアブラシを差し出した。


「ん」


 そう言って押し付ける。行き場のなくなった手で受け取ってアルフはデイジーを見下ろした。眉尻は悲しげに下がっている。


「これ、何か不備でもあった?」


 もしそうならば申し訳ない、と心の中で反省する。

 この間のテストでいい成績をとった、とエマから聞いた。それのご褒美に何か欲しいものはないか、問うと姉たちのお下がりは嫌だとヘアブラシをねだった。

 今年で十四歳になるデイジー。おしゃれや外見に非常に敏感になる年頃で、癖っ毛の持ち主ならば至極当然だ。

 何軒もの店を回って選んで買ったヘアブラシを渡された、ということは気に入らなかったのかもしれない。妹の返事を余命宣告を恐れる人間の如く、アルフは待った。


「え、そういう意味で渡したんじゃないんだけど」


 首を小さく傾げてデイジーは返答した。


「自分でやると上手くできないの」


 三つ編み。


 まさかの返答に、緊張で上がっていたアルフの肩が脱力する。

 つまりだ。この可愛い妹は自分に髪をまとめろ、と仰せなのだ。髪の梳き方はヘアブラシを買ったその日にエマから教えてもらっただろうに。

 十四になったら大人だともう何度も周りから言われているのに、なんだかんだデイジーは甘えてくる。そんな妹を拒絶せず、結局甘やかしてしまう自分は更に悪い大人に違いない。


「仰せのままに」


 これで最後にしよう。何十回、何百回目の決意を胸に鏡のある洗面所へと移動した。

 鏡にデイジーとアルフの姿が映る。今のアルフと夢のなかのあるふの姿は大きく違った。少年だった体格は現在、青年となっている。一昨日十九歳になったばかりだ。声だって声変わりを経て大人の男の音になった。

 ただ変わってないのは二つある。

 老人だと間違えてしまいそうな白髪と濁ったブルーの瞳。


「羨ましいなあ」


 老化とストレスの象徴ともいえる白髪を鏡ごしにデイジーは羨望の眼差しを無邪気に向ける。


「……あまり、いいものではないよ」

「そう? とってもキレイよ、雪みたい」


 妹の純粋さは残酷なまでに眩しい。否定的な言葉を言いかけて喉奥にしまいこむ。眩んだ瞳を鏡に映るデイジーから目の前にある彼女の髪に移した。


「わたしはお兄ちゃんみたいに真っすぐじゃないし、色だってほら」


 デイジーは不満げに自身のブラウン──細かく言えば濁ったシナモン色──の髪をひとつまみして軽くもてあそんだ。亡き母譲りのウェーブがかかった髪。それを優しくデイジーの手から取ってヘアブラシで丁寧に梳いた。

 絡んでしまわないように下から上へと。


「俺は好きだよ、デイジーの髪。髪質も色も」


 唐突に紡がれた兄の言葉は、妹にとって幸せになれる魔法の呪文と同格らしい。不満そうだった顔はあっという間に明るさを取り戻した。

 アルフの器用な手つきでできあがった三つ編みは、左右対称を見事に体現させている出来となった。リボンの位置も大きな差違を残さず結ばれていた。


「ありがとう、お兄ちゃん!」

「どういたしまして」

「大好きよ」


 大きくなった甘えん坊が椅子から立ち上がってアルフを抱きしめた。アルフは小さな細い体を抱きしめ返そうとした。しかし、寸でのところで躊躇い、結局手は行き場を失った。


「そろそろ行かないと遅刻しちゃうよ、デイジー」

「あっ!」


 慌ててデイジーはアルフから離れて洗面所から出ていく。

 背中が見えなくなったあと、アルフは己の両手を見下ろした。乾燥した指先と右手の中指にはペンだこがつくられている。擦り傷も少々。古傷らしき痕もこびりついている。

 少し前まで、今より幼かったこの手は真っ赤でとても汚かった。


──キレイで好きよ。


 何も知らぬ者の言葉は軽く、時には剣よりも心に刺さる。血と死臭を吸った泥と風を浴びて来た体と髪をキレイと言うのか。


 よく見ろ。


 よく、見るんだ。


 鏡に映る自分の姿を拒絶するように顔を覆う。


 こんなにも自分は汚い。

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