3.雨の国
朝食を食べようとした頃、朝日は雲に隠れて代わりに雨が降りはじめた。
突然の天候の変化に道行く人はさも当たり前に傘を取り出して雨に対処した。ここの国民は常に雨具を持ち歩いている。持ち歩かないのは車を所持しているか、他国から移住してきたばかりの人間だけだ。
大陸の西側に位置するエピストゥラ大公国の梅雨は長く、太陽を崇める日はあまりない。そのせいか、昔はよく大飢饉に陥りやすかったらしい。
現在では作物の品種改良が進み、ある程度の食糧難は解決に進みつつある。他国に頼りながらも自立への道は順調だ。
エマが用意した朝食を平らげたあと、三人で片付けをした。今日の朝食は昨日の夜の余りものだったが、日を置いたシチューは一層旨味を引き出した。よほど美味しかったのだろう。焼いたライ麦パンで皿の隅々を掬いとって平らげたデイジーは頬をピンクに染めて更にご機嫌だ。
「アルフ、今日のお仕事終わったら相談したいことがあるの」
洗い終わった食器を拭きながらエマがアルフを一瞥した。彼女の意志の強いつり目のサファイヤの瞳が、アルフは苦手だ。
「相談したいこと?」
「姉さんの誕生日プレゼント」
「ああ……一ヶ月後、だったね」
彼らの一番上の姉アウラ・ナイチンゲールは母が死んだその日から姉と母という二つの役割を担ってきた。食事や洗濯などの家事全般に家計の調節、妹と弟の面倒に泣きじゃくる末っ子のオムツ替えとご機嫌取り。三人して全く頭が上がらない最強の姉は、エマが十四歳になったと同時に看護婦(時代的にはまだ看護師という言葉は出てこない)を目指すために働きに出た。研修による実技と座学を無事習得したあと、従軍看護婦として活躍し、現在は北の国境付近に設立された国立病院に勤務している。アウラに会いにいくには鉄道に乗って片道八時間も長旅に興じなくてはいけない。
長い休暇が入れば行けるのだが、毎日が忙しいらしく、簡単に家族団らんを過ごすのは難しい。そのため誕生日を気軽に祝うことができなくなった代わりに、プレゼントに凝るようになった。
おしゃれな女性用のタイ。
女性に流行した短編小説。
贈るからには迷惑になるものは贈れない。
看護婦は香水をつけない。またアウラはネックレスなどには興味ない。お菓子を贈ろうにも時間はかかるし、いつ手をつけてくれるかも分からないのですぐに却下された。
そのため毎年、アウラの誕生日について苦労することになる。
「今年はあんたが考えてちょうだい」
エマの指名にアルフは戸惑う。
「なんで」
「あんたのことを一番、気にしてるのは姉さんよ。毎日しけた面してるって手紙に書いたら泣き跡のある返事がきたの、知ってるでしょ」
「それは、そうだけど、俺なんかが選んでいいの?」
迷いのある視線をエマは跳ね返した。いいわね、と強く言いつけて反論の余地を与えない。
「……」
アルフが何も言えなくなったことで会話は打ち切りとなった。
支度を終えたエマとデイジーは玄関で荷物を持って外の雨を見つめる。エマはデパートの接客業務。デイジーは学校でタイピストの勉強が待っている。
アルフがタイプライターと資料を詰め込んだトランクを車の助手席に詰め込み、アパートの入り口付近に寄せる。デイジーとエマが乗車して服についた水滴を拭った。
「私の三つ編み、濡れてない?」
「濡れてないわ」
二人は後ろで賑やかにおしゃべりを開始した。それを確認したあと、車を発車する。中古で貰い物のこの車に愛着を持っているアルフはこの車に名前をつけている。恥ずかしくて誰にも言えないが。
渋滞に巻き込まれると踏んだアルフは瓶をポケットから取り出した。白い錠剤を数粒取り出して口に放り込む。それをエマが見つめている。
「もう少なくなったのね。明日病院に行きなさいよ」
「分かってるよ」
うんざり。
それがとても相応しい心境だった。ホールや回廊、診察室、どこまでも狂ったかのように白を使い回す病院を、アルフはどうしても好きになれない。しかも運が悪いと血塗れの救急患者と鉢合わせするときもある。
先日、処方箋を取りに行った出来事を思い出して額に汗が滲む。袖口で乱暴に拭い、ハンドルを改めて握りしめた。
「分かってる……」
沸きあがる苛立ちを抑える朝は日常茶飯事だ。
エマをデパートの裏口で降ろし、デイジーとアルフは学校を目指した。何度も助手席にあるトランクを一瞥しては汗を拭うを繰り返し、陰鬱な顔で目的地に着く。
元は大公所有の城を改装して開放されたカラムス国立初中等学校は重苦しい要塞の如く鎮座している。
初等部は五歳から十一歳。読み書きや歴史、計算、生活に必要最低限のことを学び、将来を決める。
中等部は十二歳から十五歳。選んだ仕事についての知識を学ぶことができる。就職する者もいれば、更に上の専門部に通うことで極めることも可能だ。
エピストゥラの義務教育は中等部まで。
「じゃあ、また放課後にね、お兄ちゃん!」
車を降りたあと、すぐに友人の姿を見つけたデイジーは足早に駆け寄っていった。挨拶を交わし、楽しそうに会話をして中等部の校舎に消えた。
それを羨ましげに確認したあとアルフは校舎の奥にある一室に向かった。アルフより上の男女が数人、出迎えてくれる。
「おはようございます、アルフ先生」
一番の年長者である初老の女性が眼鏡を掛けなおしながらにっこりと微笑んだ。
「おはようございます、エレオノーラ先生」
それぞれ挨拶を交わし、それぞれの教材を手に取ると別々の教室へと向かった。
ここでお分かりだろう。アルフの仕事は教員だ。十九歳にして初等部七年生の一つのクラスを受け持つ。年が近いからか大変人気のある教員だ。教室前にはもう生徒たちが廊下側の窓から顔を覗かせて手を振っている。それに振り返すと嬉しそうに生徒たちは笑った。
「アルフせんせー! おはよう!」
「おはよう」
無邪気な笑顔の群生にアルフの心は少しばかり晴れやかになる。
どこまでも健気に、どこまでも純粋でありますように。それだけを願っていつも教壇に立つ。
そうすれば、綺麗な大人でいられると愚直に信じれるから。
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