2.割った代償
アルフ・ナイチンゲールは工房の清掃に勤しんでいた。三角巾で頭を包み、箒を適当に掃く。
週一日の休日が、雑用に消えていく。
何故こうなっているのかというと、数日前に遡る。
アウラの誕生日から二日が経過して家族関係は良好だった。そんな時に、
手紙の内容はアルフに対しての高額な──月の給料四ヶ月分が消えるほど──請求書だった。勿論、アウラの誕生日プレゼントの料金は、すぐに決済した。というよりここまで高額ではなかった。ではエマとアルフが仲直りのために作られたアイリスのことだろうか、と考えを巡らせたが、ウォークスが「お代はいりません」とタイプしてくれた。
ではいったい高額の請求書は何の料金なのだろうか。
全く身に覚えがないアルフに対し、工房で待っていたヴィクトリカが吹雪の笑みをうかべていた。
「何の料金か、ですって? あんたが床に落として粉々にしてくれた花瓶の代金よ」
粉々にした?
花瓶?
アルフは己の記憶を遡った。床に落として粉々に。そのフレーズを噛みしめるように頭を抱えて、あっと声を上げる。ようやく思い出したアルフに、ヴィクトリカは呆れ顔だ。
久々に発作が来たあの日。そう車のクラクション音で精神的ダメージを負ったあと、工房まで押しかけて倒れたのだ。その時、桜の柄の花瓶を割った。
「あ、あの花瓶が、俺の給料、四ヶ月分……」
目眩がした。
部屋の奥からウォークスがアルフたちを心配そうに見ているが、ヴィクトリカを説得することはない。目が合うと申し訳なさそうな顔で首を横に振った。頼りない様子に、この工房でヴィクトリカが一番力のある人間らしい。ウォークスが店主のはずなのに。
「分割でも一括でもいいから、ちゃあんと払ってもらいますからね」
改めて領収書を突きつける彼女に、ウォークスがなけなしの勇気を見せる。
『アルフさんは、わざと割ったわけじゃないと思います』
「だからって、大切な備品が壊されたのを帳消しにしろって?」
呆れたように、あのねぇ、とヴィクトリカが至極正論を口に出す。
「例外なんてものはつくったら、このあと一生ついてくるわよ。あの人は許されたのに、なんで自分は駄目なのって言われ続けるの」
後々営業に妨害となるかもしれない、と諭されて店主であるウォークスは困ったように眉を下げた。
『なら、せめて、下げるだけでも』
「いいブランド品よ、下げるなんて──」
ここで急に口を閉ざすヴィクトリカ。一瞬だけ考えて、いいことを思いついたと手を打った。
「いいわよ」
「えっ」
突然の肯定に思わず間抜けな声が出る。
「金額は下げてもいいわよぉ」
ただし。
普通の笑みがだんだんと歪んだ。美女というのはそれでもさまになるものだ。いやしかし、悪魔の微笑とはまさしく、今のヴィクトリカの表情のことをいうのではないだろうか。
アルフは内心怯えながら彼女の言葉を待った。
「助かるわぁ」
店内の猫脚のソファに座り、ヴィクトリカは紅茶を飲んでいる。正直言うと腹のうちがもやもやと今にも暴れてしまいそうだ。
アルフが彼女に言い渡された条件は以下の通りだ。
工房内の雑事を行うこと。
買い出しの荷物持ちに運搬と送迎。
工房内の掃除。特にウォークスの作業部屋。
客に対する茶菓子の提供などの給仕。
教師という本業があるので難しいと言えば、休日に来いと圧力で押し切られた。以来アルフは、この工房の奴隷である。掃除は厳しくチェックが入り、客へ出す紅茶の入れ方や茶器の選別を叩きこまされた。おかげで紅茶を入れることに上手になったが、家では紅茶を見たくないと珈琲の消費が増えた。
昼食の準備もアルフの仕事になった。清掃を終えたあと、二階へ向かう。キッチンはとても綺麗に整理されている。
作るのはサンドイッチと決まりがある。
じゃがいもを茹でて潰し、チーズと塩胡椒を加えてパンに挟む。他の野菜も準備する。三人分のサンドイッチをトレイにのせて階下へ配膳する。それが終わるとウォークスを呼ぶために作業兼私室へと向かった。
ノックしても物音がしないのは、彼女は寝ているか、もしくは作業に没頭しているかの二択だ。こういう時は容赦なく入るようにと教わっているので、アルフは足を踏み入れる。
「……嘘だ」
扉を開けてすぐ絶句する。つい先週の休みに床を掃き、道具の整理をしたはずなのに。目の前に広がるのは、紙屑の積雪だ。片付けたはずの覚えのある道具が散乱していた。
足の踏み場を確保しつつ、店主を捜す。
ウォークス・シトレーは作業に没頭すると誰かが肩を叩かない限り、睡眠と食事を忘れてしまう。ヴィクトリカが雑用係を欲しがったのは、それが原因だった。
一人で彼女の面倒を見るのはさぞかし大変だったろう。花瓶の賠償返済が終わっても、この先アルフはことあるごとに押し付けられるかもしれない。
──それもいいかも。
なんて思う自分がいる。思っていた以上に、充実していた。彼女の出来立ての作品をすぐに見れる環境は魅力的だった。先週は一重咲きの薔薇ができていた。とても愛らしい瑞々しさに何度も見惚れた。
今日はカーネーションを作っていたらしい。作業台の上に、屑をどかしたスペースに赤いカーネーションの群れがあった。作業台に彼女がいないとするならば。アルフはベッドの天蓋を掻き分ける。
いた。
作業するワンピースドレスのまま、ベッドに倒れる形で寝ている。乱れ髪の隙間から青白い顔が見えた。
「ウォークスさん!」
あまりにも死んだように眠るのだからアルフは慌てて彼女の手首を掴んだ。彼女の寝姿はあまりにも紛らわしいので毎回起こすたびに心臓が焦る。
あまりにも細い手首がびくりと跳ねてウォークスの体が身じろいだ。寝ぼけた顔がこちらを見てゆっくりと上体を起こす。目が瞬き、アルフを凝視して顔を真っ赤に染めた。
「おはようございます、ウォークスさん。よく眠れましたか」
恥じらう頷きに思わず口が緩む。立ち上がったことを確認してアルフは部屋を出た。
しばらくして身支度を適当に済ませたウォークスが売り場に顔を出した。黒髪は乱れたままだ。彼女の手にはブラシとリボンが収まっており、アルフは苦笑してそれらを受け取った。
『すみません、ありがとうございます』
耳を赤くさせ、ウォークスが名刺サイズの紙を見せる。
「構わない。慣れてるから」
ウォークスの黒髪はとてもしっとりしており、デイジーよりもまとまりが良かった。リボンを結び終えるとまた『ありがとうございます』と紙を差し出す。受け取って大事にズボンのポケットにしまい込む。
彼女から貰うメッセージカードは一枚ずつ着実に増えていく。何度も見返してはライティングビューローの引き出しのなかにそっと隠している。
ここにいると穏やかになる。
アルフはそれを自覚していた。心が落ち着いて、優しさをくれる。だがそれと同時に、罪悪感が生まれて焦燥が迫る。その時脳裏を駆け巡るのは、戦友、父、そして早くに死んだ母の姿。
慈しみを与えてくれた母の面影は今は霞んでいる。
母はどう思うだろうか。
ぼんやりとした食事のすぐあと、客人の来店がドアの音で告げられた。
「いらっしゃいま──」
振り向いてアルフは歓迎の言葉を最後まで言い切れないで固まる。毎週必ず薔薇を買う数少ない常連客かと思っていたが、予想は斜め上に外れた。
若い男女二人。
一方の女性を、アルフは間抜けな顔で凝視する。
「ヴィオラ先生?」
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