4.冷たい息子
冷たい響きだった。
母親に対してそのような言葉を平然と言う男に、アルフは怒りを覚えた。一歩前に出て彼の左頬に拳をめり込ませたかったが、思いとどまる。
果たして、自分に彼を糾弾する権利はあるだろうか。
愛してくれていたとは思う。
自分には、母を慕う資格はあるのだろうか。
「リカルド! なんてことを言うの!」
悲鳴にも似た、ヴィオラの詰りが工房内を満たす。彼女は立ち上がり、リカルドを非難する。悲しみ、怒り、困惑が揺れている。
ヴィオラの両手は震え、今にもリカルドを叩いてしまいそうだった。
「あなた、自分が何を言ったのか、分かっているの?」
震える声に、リカルドはようやく己の失言を自覚したのか、後悔の色を滲ませる。しかし懐中時計に一瞥し、上げた顔は平然と戻っていた。
「帰る」
とうとうヴィオラの我慢が限界に達したようだ。一際大きく肩が震えたかと思うとヴィオラはリカルドの頬をぶちのめした。
乾いた音に、アルフでさえも震えてしまう。
対してヴィオラの表情は、恐ろしいほど冷たい。やはり美人の怒っている顔は恐ろしいものだ。
「……ごめんなさい」
アルフたちの存在を思い出したヴィオラは、気丈に微笑んで発注書にサインをした。
気まずい雰囲気の残り香は、リカルドとヴィオラが帰ったあとも続いた。
喋ることはできないウォークスが不機嫌を隠さずに腕を組んで入り口を睨んだ。珍しい光景である。アルフは彼女は怒ることなどないと思っていたが、これは改めねばならない。
隣で盛大な咀嚼音が聴こえた。見ると、ヴィクトリカが上品の欠片もなしに残った茶菓子を貪っている。
「やな奴」
溢れた独り言に、ウォークスが力強く頷いた。漆黒の長い髪が反動で揺れる。せっかく綺麗にまとめた髪が乱れそうで勿体ない。
「フランチェスカさんとは知り合いで?」
ようやく疑問が解消される時間だ。アルフはウォークスに向き直る。
「──まあね。うちらにとって思い入れのある客よ」
『はじめてのお客さまです。お忙しいのに、よくいらしたり、お手紙を下さったり。店の紹介などもしてくださいました』
はじめての客で常連。確かに特別ではある。
アルフも平等に接してはいるが、はじめて受け持った生徒たちのことはよく覚えているし、深い思い入れもある。そのせいか一部の生徒たちとは手紙のやり取りを数回していた。
ウォークスもそうなのだろう。フランチェスカからの手紙を大事に持っていた。
タイプライターから手を離し、冷めてしまったチャイを口にする。ホッと唇から息が漏れて、白い頬が色づいた。
「午後から作業に入らなきゃ」
やる気のない提案に、アルフとウォークスは無言で頷いた。
作業兼自室の隅には大量の数の注文が入ったとしてもすぐに対応できるように、着色されていない切っただけの花びらと葉、茎たちがそれぞれの種類ごと収納されている。これもフランチェスカ夫人のアドバイスによるものらしく、ウォークスは忠実に従っていた。
まずはストックの確認からすることになった。一番多いものを候補に入れておくというのだ。
一つ一つ手分けしてみるが、どれも十分用意されている。
「どうしましょうか」
一番上の引き出しを見終わり、アルフは脚立から降りて畳む。
紙花の作り方は簡単であるが、実際にやってみると難しいものである。
本物の花を贅沢にも解体した、これまた贅沢にカラー写真の図案本をまず広げることから始まる。薄い紙に花びら、額、茎、葉っぱの輪郭を鉛筆で描き、切り取る。そのあとに着色し、乾燥。そして接着剤で組み立てる。
アルフは先週の休みに、その製法を体験した。もとから興味があったので、頼んで見てみたいと言うと、ウォークスは悩むこともなく首肯して、魅力的にもこう提案した。
『作ってみますか?』
つい昨日のことのように思い出す。もともと器用だったアルフは、切り取るまでの作業を難なくこなせた。しかし、最大の難関が現れる。
絵の具の着色だ。
本物に見えるように、カラー写真を見ながら絵の具をつける。ムラのないように、絵の具が固まってしまう前に素早く、薄く。水溶性の絵の具のため、水を筆に含ませる量には注意が必要だった。過度に水分を吸わせると、下地に塗った絵の具が再び水気を帯びて混ざり、最悪汚い色合いになってしまう。
アルフは水の調整に苦戦した。はじめての一本目は完成することなく、混濁した色合いの花となって屑籠へと葬られた。
「依頼の花の色は白なので、塗らなくてもいいのでは?」
ウォークスは首を横に振る。
着色は省略しないらしい。
『塗らないということは未完成のままになります。未完成のまま納品することはできません』
ウォークスの瞳はいつになく真剣だった。プロとしてのプライドが見え、アルフは己の失言に恥じた。
「すみません……」
素直に謝罪すると、ウォークスは慌ててタイプする。
『いいえ。アルフさんは白い花を作ったことがないので、知らないのは仕方がないです』
それでも気の晴れないアルフに、ウォークスは困ったように思案する。更に申し訳が立たなくなったので、アルフは改めて仕事の話に戻す。
「花は何にするか、決めましたか」
忘れてた。
アプリコットの瞳が呆ける。
『まだ思いつきません』
図鑑とのにらめっこが始まった。
リカルドとヴィオラの喧嘩で、ともに図鑑を見て決めることはなくなった。時間が少し経ってから連絡をしたが、多忙であると別人に断られた。もしかするとレディヴァッグ家の使用人だったかもしれない。
作業台を片付け、三人は台を囲むようにして図鑑を広げる。
「なんでもいいが一番困るのよね」
金糸の髪を指で遊びながらヴィクトリカが唇をすぼめる。
「だいたい、いくらなんでも言い過ぎだとは思わない?」
リカルドのことを言っているのは明らかだ。アルフとウォークスは図鑑からヴィクトリカへと視線を移す。
「いくらなんでもって、ヴィクトリカさんは何か知っているんですか?」
「まあね。というか業界では有名よ。夫人と息子の不仲は」
問うと声のトーンが僅かに高くなった。得意げだ。
「フランチェスカ夫人と息子は元から相性が悪くて喧嘩ばかりしてたみたいよ。幼い頃は良かったみたいだけど、思春期が来た辺りからひどくなってしまったみたい」
そうなるとあの素っ気ない態度は当然なのかもしれない。しかし、そう思う反面、だからといって母親の死に対して淡白すぎるような気がしなくもなかった。
戦争がはじまる前に死んだ母のことを思い出す。
母の死の原因は、産後の肥立ちの悪さだった。医師に見せても、全く体調は良くならず、頭を撫でることも億劫そうだった。
しかしその代わり、とでも言うように、デイジーは元気に育ってくれた。今まで風邪で寝込んだことなど一回もないのではないだろうか。アウラとエマ、アルフがつい甘やかしてしまうのは、末っ子という他に、母が頑張ってくれた証でもあるから。
──母の最期の言葉はなんだったろうか。
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