5.悪夢の罵声

 久しぶりに、母の夢を見た。

 場所は前の住居だったボロボロの部屋で、窓辺の椅子に母が座っている。曲線を描いた脚を取り付けたチェアは、両親が好んで使っていたものだ。二人がいない今、アウラとエマたちが悲しみに耐えられずに質に出してしまった。

 柔らかい横顔は、窓の外へと向いていた。


「アルフ」


 部屋の入り口に立ち尽くすアルフを呼ぶ。懐かしい声音に、声を出し損ね、喉奥に消えた。

 夢であることは明らかだった。

 しかしそれでも嬉しかった。今はもうモノクロームの写真でしか見れない、穏やかな母に会えるなんて。奇跡に等しい。


「おいで、アルフ」


 呼ばれて、迷うことなくそばへと寄り添う。


 会いたかった。

 会いたくなかった。

 会いたかった。

 会っていいのか知りたくなかった。


 思いが胸のなかで巡り、思考を混濁させる。

 息子が隣に来ても、細い手に触れても、母は全くこちらに向くことはなかった。

 無表情のまま、窓の外を見ている。

 違和感が去来した。

 息子よりも大事なものだろうか。小さな嫉妬心と大きな好奇心に押され、アルフは母の視線を追った。


──ぁ。


 後悔。

 声が出ない。

 焼ける。焼ける。アルフの心全てが。

 窓の外には、アルフの罪がたくさん立っている。

 子ども、青年、老人。みんなが武器を手に、こちらを見つめている。目は虚無で、感情が全くない。憎しみと憤怒が、ぽかりと開いた口からこぼれている。

 彼らの前にいるのは、戦友ジークフリート。


 何故、お前は生きているのだ。

 何故死ななかった。

 何故、何故、ナゼ、なぜ。


「あ……あぁ……っ」


 違う、そうじゃない。アルフは無意識のうちに首を横に振った。燃え上がる夕日とともににじり寄る群衆から目をそらし、一歩下がる。


「アルフ」


 逃げようとする息子を母は許しはしなかった。下がった瞬間に腕を両手でつかむ。女とは思えないほどの握力で握られ、痛みのあまり、アルフは思わず母へと拳を振り下ろしそうになった。


「お前はなんてことをしてくれたの!」


 指がとうとうアルフの腕に食い込んだ。


「あの人たちをどうして殺したの!! この人殺しっ!!」


 母は見たことのない形相で窓の外の群衆を指差した。


「なんで、どうして、あんな、恐ろしいことを!」

「それ、は……国のために……っ」

「国のためですって? あんなに殺しておいて国のせいにするのね、アルフ? 無責任にもほどがある!!」


 母はそう罵ってアルフの手を解放した。と、思えば、アルフをこれまた女とは思えないほどの力で後ろへと押した。アルフの体は簡単にもバランスを大きく崩し、床に倒れる。


「人殺し」


 起き上がろうとするアルフに、母は今度こそ心にとどめを突き刺した。


「お前なんて産むんじゃなかった」




 これは、天啓なのかもしれない。

 幸せになってはいけないのだと。




 身体中があちこち痛い。悪夢から目を覚ましたアルフは、ベッドから落ちて床に体を打ち付けていた。きっと大きな音を出しただろう。支度を整えて食卓に顔を出すと、エマが目を吊り上げてこちらを見た。


「どしんって音がしてうるさかったわ」

「……ベッドから落ちたんだ」


 不可抗力だから謝る気になれない。


「お兄ちゃんが? 珍しいね」


 ハムを頬張りながら綺麗に喋るデイジー。その手にはパン用の包丁があり、柔らかい一斤の食パンを切り分けていた。ルコからもらった彼の実家のパン屋の試作品だ。感想文を早く書き上げねばなるまい。


「夢見が悪かっただけ。大丈夫」


 自分にも言い聞かせるように、大丈夫だ、ともう一度言う。それでも発作のことを心配する二人に、アルフは笑ってみせた。

 今日に至るまで、二人に頼るようになった。不安も全部とは言えないが、話す。辛い時は寝るまで手を繋いでおこうか、とまで言ってくれる──一緒に寝ようか、という提案もあったがベッドサイズの問題と気恥ずかしさで断った。

 エマは料理を、デイジーはいつも以上に家事の手伝いを。夜は三人で話をしながらそれぞれの作業をする。無言になるときもあれば、ともに読んだ本を薦めたりもした。

 アルフにとってはもう十分、頼っている。ここで母に罵られる夢を見た、などと言ったら、更に二人に負担をかけてしまうだろうし、アルフはあの夢が自分の潜在意識の塊であるということを理解していた。整理するまで、時間がかかる。

 笑って誤魔化したあとの通勤途中、デイジーが突然、母のことを聞いてきた。


「ママってどんな人だった?」


 どきり。

 心臓が跳ねる。ハンドルを改めて握り直し、アルフはミラー越しの姉妹を見る。


「優しい人だったわ。あとは、そうね。やんちゃだったかな。いい歳して木に登ろうとしたのよ。お腹のなかにはアルフができたばかりだったのに」

「え。ママはなんでそんなことしたの?」

「……お腹が空いていたそうよ。柑橘がその木に成っていて──ああ、そっか、デイジーは知らなかったわね。アルフが産まれるまでは地方にいたのよ。そこだとカラムスよりも果物がなりやすい気候だったの」


 はじめて聞く母の一面に、デイジーは目を輝かせる。映された妹の愛らしさに、アルフはようやく心から唇に笑みを綻ばせた。

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