9.冷めていく家族

「舞台脚本家になりたいの」


 エマが帰って来て三人がリビングの卓に着く。すぐに先手と言わんばかりにデイジーが夢を語り出した。突然の告白に、アルフとエマは困惑を隠せない。

 その様子に気付かぬままデイジーは夢について熱く、そして心を込めて口にする。


「どうしても作りたいと思ったの。それで最近になって活動をはじめたわ」


 恋をする乙女のように。

 デイジーは頬を赤くする。


「書きはじめたらどんどんアイデアが出てきて、指が止まらなかった!」


 ここ最近毎日鳴らしていたタイプライターの音は、創作活動のものらしかった。どうりで集中力が長いはずだ。

 一人盛り上がるデイジーに対し、エマは冷めている。一切妹に同調することも、心の良い表情ももたない──つまり無表情で重たいため息を吐く。あからさまに大きく吐いたので、デイジーの耳にも届いた。

 熱意の篭った声量が萎む。


「エマお姉ちゃん?」


 現実的な姉は夢見る妹を見つめている。


「だから内定を取り消したい、ですって?」


 冷えた声音に思わずデイジーだけではなく、アルフも身震いした。

 腕を組んだ姿勢はエマが怒っていることを何よりも表している。目の端がこれでもかと吊り上がり、剣呑さを孕んでいる。


「こんなんじゃ、クラスメイトに殴られても文句は言えないわね」


 鼻で笑う。


「ばっかじゃないの?」


 エマの怒りは長点に達していた。今にも卓上の原稿用紙を破り捨ててタイプライターを放り投げそうだった。


「あんたが言っていることと望んでいることは、私たちの労力を無駄にすることよ」

「そんなこと!」

「学費は?」


 正論な問いにデイジーの唇がわななく。


「あなたが望んだ学科に行かせるために、私たちは働いたわ」


 アウラ姉さんも。

 エマ自身も。

 アルフも。


 本当だったら学問の道もあっただろうに。家族のために我慢して。


「それを棒に振ってドブに捨てようとしているのよ」

「違う!!」デイジーは首を横に振る。

「違わない」


 アルフはエマが言いたいことが理解できた。学費は安い方ではあるが、初等部から計算すると馬鹿にできない額だ。教科書やその他の授業で必要なものまで入れてしまうとさらに膨れ上がる。内定という形で結ばれた実を、デイジーはいらないと放り投げようとしている。

 簡単に投げ捨てられるほど、安く働いて来たわけではない。

 エマが言っていることは正しい。愛する妹を追い詰めていたとしても、変わりはない。

 突然すぎる心変わりはあまりにも不誠実すぎた。


「よくもまあ簡単に内定の取り消しだなんて言えたわね!」


 早口で捲し立てられ、デイジーはうつむいて制服のスカートを握り締めた。


「その制服だってタダじゃないの!」エマはそのスカートさえも剥ぎ取ってしまいそうな勢いで指差す。美しい襞のスカートはくしゃくしゃになってしまった。

「姉さん落ち着いて」


 これ以上の口論はいけない、と感じたアルフはエマの肩にそっと手を掛ける。吊り上がった目尻がこちらを見る。


「あんたも何か言ったらどうなのよ。アルフだって本当はいいところの大きな学校に行けるぐらい、良かったじゃないの」


 刺々しい言葉に眉尻が下がる。口が開くことはない。

 言うも何も。全部エマが言ってしまった。デイジーの話を聞いてから悶々としていた思いは、エマのおかげでなくなっていた。


「じゃあ、夢を持っちゃいけないの?」デイジーが叫ぶ。「夢を持ったらダメって、お兄ちゃんとお姉ちゃんは言ってるんでしょ?!」

「……はあ?」氷点下まで冷たくなったエマの声がデイジーの嘆願に水を差す。

「姉さんはそんなことを言っていない」


 慌ててアルフは言うが、逆効果だった。


「言ってる! 私、本気だもん! 本気でなりたいの! やっと見つけたのに、なんで二人ともひどいことばっかり!!」


 首を左右に振って兄の言葉を否定する。タイプライターと原稿用紙を渡すものか、と抱え上げてデイジーは自室の前へと後ずさる。

 腫らした目の周りに新たな涙が浮かんでいた。

 怒られて混乱しているのは明白だ。それでもきっと今落ち着くことはないだろう。妹の唇は引き攣り、震えて開く。


「お兄ちゃんとお姉ちゃんなんか……っ……大っ嫌いっ!」


 拒絶の言葉を吐き出してデイジーは自室のなかに逃げていった。扉の鍵を閉める余韻が雨の音に消えた。

 深く呆れたため息を吐き、エマは椅子に座り直す。頭を抱えてまた、ため息を吐く。そして落ち着かせようと入れてあった紅茶を飲み干した。

 アルフも隣に座り直し、冷め切った珈琲を口にする。いつもより苦い味だ。


「姉さん……さっきはありがとう」


 アルフの礼に、エマは一瞬だが目を丸めた。視線がティーポットに下がる。


「……何よ、突然」

「デイジーに言ったことだよ。──俺も今のデイジーには賛成できない」空になったカップを見下ろす。もっとゆっくり飲むべきだった。

「あんたのことだから、馬鹿の一つ覚えに応援するよ、って言うと思ってたけど……そうね、賛成しない方がいいわ」


 今のところは。


「あの子、きっと流されているんだわ。ただの憧れで言ってる気がしてならないの」


 言っていることが分かる気がした。

 よく小説にあるような、恋に溺れた女たちはいつも周りが見えていない。何を言っても無駄な、恋に落ちた女たちがデイジーと重なる。


 まさか、な。


 嫌な予感がして落ち着かない。アルフは珈琲のお代わりを求めた。

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