6.花畑と夜の琥珀
「いや違うんだ」
慌てて弁明をはじめる。
「実は、知り合いのポストマンが困ったことになってて、それを手伝ったんだ」
全く隙を寄せ付けない女性の防御の固さに、アルフは舌を打ちそうになる。まるでエマに睨まれているかのようだ。
「中身は見てない、安心して欲しい。他人の手紙を見る趣味はない」
「──そう」
女性は組んでいた腕を解いた。
「分かったわ」
ちらり、と手に持つ手紙を見た。封蝋はしっかり閉じてある。
「信じてあげる」
納得したようだ。アルフは緊張を解いて店のなかを覗き込む。
「それで、あの、ここはなんの店なんだ?」
「看板を見てなかったの?」
呆れた、と言わんばかりに肩を竦め、女性はアルフを店内に招き入れた。
一歩。
たったそれだけで足を入れただけで、アルフの視界は鮮やかに変化した。
花畑だ。小さな呟きは誰にも聴こえることはなく空気に消えた。
花畑がそこに存在していた。
シックな壁に猫足のテーブル。それらを埋め尽くすたくさんの花。古いモノクロの図鑑で見た花が色を持って咲いている。バラにカーネーションにスイートピー。
「……すごい」
感嘆ばかりが零れる。
「こんなにたくさんの花を見たのははじめてだ!」
興奮気味に女性に振り返る。こほん、と女性は咳払いし、アルフの隣に立って白磁の笑みを浮かべた。
「こちら、全て当店の
「紙で? そんな馬鹿な──あ」
テーブルの花瓶のなかに揺れるバラに振れる。女性の言葉は嘘ではなかった。紙で見事に作られている。美の女神の唇が微笑する花びら、生命の流れる葉脈の筋、蜜蜂たちの愛らしい尾に潜む棘。刹那、甘やかな匂いがしたような気さえした。
甘やかな白昼夢を見ているかのようだ。
「これだ」
姉への誕生日の贈り物はこれしかない。紙なのでただ飾るだけで手間はひどくかからない。
「店主はまだ用事で?」
「ええ。それにそろそろ店じまいするところだったのよ」
長居は迷惑だ。
女性の瞳と態度がそう物語っている。
「明日は開いてる?」
「勿論」
「──なら、明日必ず来る」
告げると女性は満足げに笑った。閉店時間を確認して、早々に家を目指す。心は晴れやかに踊って、いつもは忘れないはずの服用時間を忘れていた。
帰って早々、エマとデイジーに紙花のことを伝えた。エマは花には興味がない、と言って不服そうだったが、妹は夕食のグラタンを頬張りながら乗り気で聞いていた。そして明日、店に行き、見てから選ぼうという話になった。
夕食後、自室にての仕事の事務処理を行いながら、アルフは一人満足げだった。タイプライターの音がピアノの演奏のように軽快に紡がれる。これほどいい日はいつぶりだろうか。
「ご機嫌ね」
休憩で訪れたダイニングにエマが珍しく顔を出した。努めてアルフと二人きりにならないようにしていたはずなのに。白いワンピースの寝間着に紺色のブランケットを羽織り、手には小さな本を持っている。自分の珈琲を用意して彼女は驚く弟の隣に座った。ダイニングは静かに緊張を孕んだ。
いつになく穏やかなエマの顔色を伺っていると、こちらに顔が向けられ、アルフは姿勢を固く正した。
「タイプライターの音がこっちの部屋まで聞こえてた」
「うるさかった、かな。ごめん」
「別に。デイジーだってタイピスト大会の前日はうるさくしてたでしょ」
「そうだね……」
会話はここで途切れて盛り上がらない。体を向かい合わせていた二人は目を逸らし、会話の迷走に困惑した。糸口を見つけても広がらなければ意味がなく、気まずくなるばかりだ。
諦めた二人はぼんやりとしていた。エマはどこを見ているか分からないが、アルフは何とかしようと考えた。会話を盛り上げるのを諦め、続けることに努める。
「──何の本?」
エマの手もとにあるブックカバーのつけられた本を見る。デパートの手芸屋で手に入れた端切れで作ったもので、エマのイメージとかけ離れた可愛さだった。色合いはピンクでテディベアと苺の刺繍がされている。こんな趣味だっただろうか、と思っているアルフに気づいた彼女の口の端が神経質に小さく動いて、手のひらでブックカバーを隠すように置いた。どうやら弟と妹にこういった趣味を持っていると思われるのは癪なのだろう。
「違うから」
「何が?」
否定の意味が分からず、アルフは首を傾げる。覗き込むアルフの顔に苛立ちを覚えたエマは立ち上がった。瞳は苦々しい炎で揺れている。
この弟と話すとエマは苦しく思う。人の顔を伺い、常に言葉を選ぶ。嫌われないように、機嫌を損ねないように恐る恐る。それが気に喰わない。
どうして。
エマの唇が震えた。二人の間に家族の信用と信頼の糸はない。かつては結んであったのに。
「──なんでもないわ、おやすみ」
短く素早く告げてエマは自室へと逃げた。姉の背中を唖然と見送るしかなかった。
「……どうしたらいい?」
アルフだって怖いのだ。
八年前に破綻したまま。二人は大人になってしまった。心はまだ、戦争という琥珀の記憶のなかに閉じ込められているから。
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