5.乙女心は難しい

「あんた馬鹿じゃないの?」


 仕事終わりの帰り道。デイジーと共に学校をあとにしてエマを迎えにいった。合流して早速アルフは今日集めてきたアイデアを披露し、先程の言葉をエマに言われてしまった。いつものつり目が更に吊り上がっている。突然なじられたアルフは訳が分からないと戸惑いながらエマの言葉を待った。

 いったい何が馬鹿だというのだろうか。


「姉さんの年齢を考えて。今年で二十五よ」

「……それが?」


 前を見据えながら首を傾げる弟にとうとうエマは声を荒げた。


「馬鹿ッ。あんたがアドバイス貰ってきた相手はおばあちゃんと子どもじゃないの!」

「姉さん、しっ……」


 アルフは慌てて振り向く。後部座席では学校で遊び疲れたデイジーが大口開けて寝ているのだ。昼の長い休み時間にボール遊びをしたらしい。余程疲れたのか起きる様子はない。二人は安堵して話を再開した。勿論、声のトーンを落して。エマは運転席へと体を寄せて小声で説明する。


「とにかく、あんたは聞く相手の年齢層を間違ってるのよ。十一歳の子どもと五十代の女性だから良いアドバイスじゃないの、分かりきってるわ」


 ごもっともな意見である。

 アルフがアドバイスを求めたのは自分のクラスの女子生徒たちとよく話す初老の女性教員エレオノーラだった。


 以下、アドバイスの内容である。


「ラピス社のネックレス! 新作が出たって、しかもかっわいいテディベアの形!」とませてきた生徒は有名ブランドの装飾店の名前を告げてお花畑のように目を蕩けさせた。

「フリルとリボンのたっくさんついたドレスワンピースがいい」と理解の及ばないほどリボンを愛する生徒は今度母親にねだろうと意気込む。

 エレオノーラに至っては、

「猫が欲しいわねえ。のんびり過ごしたいのよ」

と鼈甲の丸めがねをいじりながら微笑んでいた。


 確かに今思い返せば変にズレていたような気がする。しかし、アルフが話しやすい女性はクラスの女子生徒たちとエレオノーラしかいない。アウラに最も年齢が近い女性教員はいるが、学年の違うクラスを持っており、接点が少ない。更に別の教員や生徒たちに人気なので必ず誰か数人と一緒なのだ。人前で姉のプレゼントを聞くには気が引ける。最もな理由は別の男性教員たちが嫉妬してくる可能性が高いということ。個人的な意見なのだが、男性女性関係なく、美人な異性が職場にいるとコミュニケーションが非常に負担になる。本音をいうと私情を職場で持ってきて歪まれても面倒くさいだけだ。


「じゃあ、何が良いか教えてよ」


 考えて考えて、結局思いつかなかったアルフはエマに助言を求めた。


「少しは自分で考えなさいよ。他人の顔色ばかり見てないで」


 冷たく拒絶して顔をそらすエマ。もう話す余地はない、と背もたれに体を預け、口を固く結んで喋らなくなった。

 他人、か。

 顔色を伺っているのはどちらだろうか。アルフは失望に揺れる瞳をフロントガラスの方へと完全に向けた。エマの怯えた硬い表情と瞳が脳裏に焼きついた。


 フロントガラスを打つ雨音だけのコーラスのトンネルを抜けて、家路につく。涎を垂らすデイジーをエマが叩き起こし、アパートメントのなかに二人小走りで入っていく。アルフも続こうとしたとき、視界にずぶ濡れのポストマンを見つけた。手紙の入っているであろう鞄を抱きしめるように背を丸め、体に合わない小さな傘で歩いている。


「ルコ!」


 酷い有様にアルフは声をかけた。名前を呼ばれてルコが顔をあげて駆け寄ってくる。


「アルフ! 仕事終わり? 久しぶり」


 紫色に変色しかけた唇の両端を一生懸命上げてルコは笑った。流石に見ていられないとアパートメントのロビーに雨宿りさせる。何事だと再び部屋から出てきたエマは、ルコとアルフにホットミルクを差し出した。その間、ルコは片目──彼は爆発した手榴弾の破片で左目が失明し、義眼をしている──を忙しなく動かし、鞄の中身が濡れていないか確認してホットミルクとともに差し出されたタオルで丁寧に拭いていた。

 だいたいを拭き終わったあと、小刻みに震える唇に熱くてアルフの父直伝のハチミツで甘く仕上げたミルクを流し込んだ。ようやくルコの頬に温かさが戻る。


「確かお前、配達はバイクじゃなかったか?」

「……それがさ」


 ルコはため息をついてマグカップを返した。


「今日突然、故障しちゃったんだ」


 本当に突然だったらしい。車を借りようにも全部郵便社から出払ってしまい、徒歩で業務を遂行することにした。レインコートをしていたが、長時間雨に当たると体温は急激に下がる。小さい傘は、同じ郵便社に働く同僚の女性社員が貸してくれたもの。そして神のイタズラが働いたのか、今日中に配達するべき手紙はいつもより多かった。


「災難だな……」


 慰めの言葉が見つからず、同情する。


「だろう? 雨には慣れてるつもりだったけど、今日は一段と冷たく感じるよ……」

「それは、今日中に終わるのか?」


 アルフは配達用の鞄を指差す。雨から必死に守っていた鞄にはまだたくさんの手紙が詰まっており、パンパンに膨れている。


「夜までかかるかも」


 何度目かのため息をルコが零す。旧い友人の不運さに心底同情したアルフは一つの申し出をした。


「その配達、手伝おうか?」

「いいの?」

「車で配達した方が早いし、風邪を引く心配もない」

「そうだけど……」


 ルコはこの申し出に頷くのを躊躇った。何よりアルフになんのメリットもない。


「今度お前の実家のパンを安くわけてくれ。これならいいだろう?」

「うん、それならいいよ」


 人気のパン屋の次男坊のルコは快く頷いて申し出を受け入れた。毎日がライ麦のパンばかりだったので、小麦のパンを時々食べたかったアルフはしたり顔でルコを車に乗せた。その一部始終を見ていたエマは肩を竦めてホットミルクの残骸を持って部屋へと上がっていったのだった。

 協議して封蝋のしてある手紙をアルフは担当した。開封したらすぐに分かるので中身を見ようとしないための抑止だ。他人のものをあれこれする趣味はないが、仕事とは信頼が大きく関係する。

 結果、日が完全に暮れる直前には配り終えることができた。画家を目指しているルコは作業時間が削られる心配を回避出来てご機嫌になって帰っていった。友人と手を振って別れるのは久しいことで、アルフの唇の端が小さく吊り上がる。


 さて、こっちも早く帰ろう。


 夕食に想いを馳せて車に乗り込む。


「げっ」


 あるものを見つけて気分は急降下した。

 あるもの──一通の手紙だ。座席の下に落ちていた。鞄から出した時に落ちたのかもしれない。他にも落ちていないか車内を見回った。何度も見て一通だけだったことに安堵する。

 テントウムシの封蝋がまず目に入って更にアルフは顔を歪めた。エピストゥラ家と深い関わりのある商会のものだ。そうだとするとこの手紙はとても重要である。紛失したりしていたら、大問題になっていたかもしれない。ぞっとして粟立った腕を摩り合う。

 宛先は。


『カラムス一区ムーサ通り北五ブロック一西二軒目

 ウォークス・シトレー様』


 カラムス一区ムーサ通りといえば、芸術の商店街だ。宝石店に画商、特に紙を材料にしたものが大半を占める。様々な仕掛けのある大人向けの美術的絵本。愛らしく好みに合うように集められたたくさんの壁紙。上品から可愛いまでを揃えたレターセット。色んな色の折り紙もある。

 宛先人の名前は男か女か判断しづらいものだった。商会に封蝋の手紙を貰うウォークス・シトレーとは、いったいどんな人物なのだろう。

 その前に届けなくては。

 とにかく記された住所へと急ぐ。生徒のための教材を買いに行く以外、あまり訪れたことがないが、アルフはいたくムーサ通りを気に入っている。たくさんの仕掛けのある絵本や文房具は何より心の奥に潜めてある少年心をくすぐったのだ。色の変わるインクリボンを見かけて思わず寄り道しそうになる。

 折り紙店の目玉商品として複雑に折られた紙はエピストゥラ宮殿を見事に表現していた。

 ここまで紙が工芸品として発展したのは、ガルテリオ大公の努力の賜物だ。国の特産品に思案して注目されたのが、木だった。長く大量の雨期に耐えて来た樹木が紙の加工に適しているもので、繁殖も人の手を加えるとそれなりに増えることを発見したのだ。その末に、上質な紙ができ、各国から愛されるようになった。

 ムーサ通りの北から五ブロック歩き、西側の道に入る。そして二軒目の建物で立ち止まる。そこには一つの看板をさげた店があった。


『紙花工房シトレー』


紙花ペーパー・フロース?」


 はじめて聞く。紙の花とはどんなものだろう。数度目を瞬き、想像力を働かせた。首を傾げ、うんうんと唸っても頭のなかで全く形とならない。折り紙の花とはちがうのだろうか。

 この国で生花を愛でるのは金持ちぐらいしかいない。庶民は道端や金持ちの庭を通り際に一瞥するぐらいで終わる。何せ生花は高い。特に雨期はより高くなる。それも長い雨期で観賞用のバラとかいった花がうまく育てられないからだ。

 金持ちの庭園は富の象徴だ。雨をどう凌ぎ、綺麗な花を咲かすかで庭師の腕と器量が試される。収入は勿論高く、人気の職業で成功する人は少ない。

 それよりも、今は紙花というものが気になる。

 店内を見せるはずの窓はカーテンが閉められ、僅かな灯りが零れるだけだった。もう閉店してしまっているのだろうか。しかし、クローズという文字は見当たらない。まだ開いていて、店の閉まる直前かもしれない。

 意を決して、アルフは扉の取っ手に手を伸ばした。その前に扉は大きく開く。


「……あら、お客さま?」


 店から顔を出したのは、美しい人形を体現した女性だった。


「何か?」


 紅紫の瞳、ゆるやかでまとまった白金の髪、白磁の肌。想像していた以上の人物に、アルフは束の間目的を忘れて見とれていたが、慌てて手紙を差し出した。扉にもポストがあったのに。


「ウォークス・シトレーさんに……あなたに手紙です。間違いありませんか?」

「いいえ。私はウォークスじゃないわ」


 別人だったようだ。

 しかし、女性は手紙を渡すように手を出した。


「配達場所はここよ。ウォークスがただ不在なだけ」


 なら安心だ、とアルフはホッとして手紙を渡した。宛先不明で郵便社に返すには可哀想だ。戦時に仲間宛に手紙が来たことがあったが、その宛先人は戦死したばかりで、遺体とともに差出人の元へと返還されたのを思い出した。ぼんやりと見つめながらも、胸が苦しくて敬礼するのがやっとだった。

 胸の痛みを紛らすようにアルフは店内へと視線を滑らす。女性が目の前にいて結局よく見えない。

 そして女性はそんな彼を訝しげに見上げてきた。見定めるかのような視線だ。


「……あなた、本当にポストマン? 今時のポストマンは背広を着ているのかしら」


 冷たい声音にアルフの心臓は跳ねた。

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