4.暗い歴史と傷跡

 授業のはじまりの鐘が鳴り、少年少女たちは大人しく席についた。瞳はもう輝いて黒板とアルフを凝視している。歴史の授業はいつもこう。読み書きの授業もこうであってほしものだ。


「八年前」


 教科書を開き、チョークを手に取る。


「当時公爵だったガルテリオ大公陛下は大国に独立宣言した」


『19××年』


 白い文字が深緑色の黒板の上に書き込まれていく。それをノートに写す生徒たちを見ながら努めてゆっくり話すようにアルフは心がけた。


「それから一ヶ月後、大国は制裁を加えるように、大国が占領していたアストルム城に電報を送る。だが、もうその城は既に我々エピストゥラ軍が襲撃に成功していたあとだった。大国の属国になって奪われていた我々の遺産は、この日に我々の手元に戻って現在学び舎としてここにある。これをアストルムの奇跡と呼ぶ」


 アルストムの奇跡、と板書する。

 少女たちは真剣に、少年たちは目を輝かせてアルフの授業に食いついた。自国が勝利した戦争なのだから誇らしくて仕方ないのだろう。そしてアルフがこの戦争に出兵していたことを皆が知っていることも理由の一つだ。独立に導いた英雄の一人が話す輝かしい戦績を聞くことは、素晴らしい冒険譚を見聞きしている気分にさせてくれるのだ。


 その視線はアルフの心を焦がした。


 英雄。そう簡単に誰もが彼を褒めそやす。自分はただ運良く生き残って還ってきただけにすぎない。どうも苦手な言葉だ。

 アルフ・ナイチンゲールは、英雄と呼ばれるほどできた人間ではないのだから。




 独立宣言があるまで、この国は大国の奴隷だった。この大陸の三分の一を支配していた大国は、近代には珍しい皇帝という暴君バカとなって君臨し、植民地を飢えさせた。元から作物に恵まれないエピストゥラは更に飢えた。

 占領された理由は豊かな土地の隣国を攻めるための足がかりとしてのものだ。

 気に喰わなければ戦争を起こし、欲しくなれば全部が自分のものになるまで吸い尽くす。

 民が立ち上がってもすぐに武力で潰され、自由を奪う政策が施された。怪しい行動をする者は裁判なしに死刑となる。疑心暗鬼の毎日に終止符がついたのは突然だった。

 当時エピストゥラの監督のために領を取り上げられた公爵だったガルテリオ・エピストゥラは皇帝に独立を宣言。それにより、皇帝は制裁を加えるよう指示。しかし駐屯に使用していた城はエピストゥラ家精鋭を主とした軍によって占領され、そこから戦争に発展する。

 エピストゥラ独立戦争の開幕である。

 開幕時十一歳だったアルフは独立宣言直後に家族の反対を押しのけ、軍に志願。ガルテリオ公爵の監督によって生活水準はマシになったが、もっと上がるのならという期待、全ては幼さによる正義感だった。家族のため、属国となってしまった土地のため。

 軍記に英雄譚。

 心躍る稚拙な正義と憧れは残酷な現実によって打ちのめされた。

 初陣はアルストム城奪還作戦。補給部隊の護衛として参加した。

 結果、アルフは散々な目にあった。

 運搬中に起きたことは以下の通り。大国駐屯兵の奇襲。アルフの隊は運搬する隊の生存を優先し、予期せぬ護衛部隊の散開と奇襲に対応せざるをえなくなった。銃の扱いに慣れてなかったアルフはとち狂って乱射した。全弾使い切ると全力で逃げた。さっきまで正義も高揚も憧れも、どこかに捨てた。死に際に家族のことを思うのだと物語にはよくあったが、アルフには適用しなかった。


 この姿を無様だと笑われようと、生きたい。


 そして近くの廃村に逃げ込んだ。息を潜め、静かになるのを待った。それから弾丸の装填。

 しかし、運悪く敵兵に見つかってしまう。この時アルフが手にしていたのは弾丸のない刃がついただけの歩兵銃。予備の武器であるピストルは懐の奥にあって出す余裕のなどない。最悪な状況に陥りながらも、アルフは先程までのパニックは起こさずに生にしがみついた。従順さを見せようと銃を床に近づける。敵兵は子どもと侮り、銃口を下げた。このあと、少年が牙を向けるなどとはひとかけらも思っていない。隙ができた瞬間を見逃しもせずに、アルフは相手に詰め寄った。一発だけ、敵兵は銃を放ったが壁に当たった。そのまま怯みもせずに床に置く予定だった銃の切っ先を真っすぐに向けて飛び込んだ。胸を深く刺したことで敵兵は顔を強ばらせ、口から血を吐き出して倒れた。

 肉の感触を、八年経った今でも覚えている。

 柔らかい肉を裂き、風船のようにあっという間に消えていった生命。

 その儚い死の感触は刃、歩兵銃から手へと映り、全身を駆け巡った。


 どうして。


 いや、そんな嘘だ。


 喉からこみ上げてくる不快感。死体の横でアルフは吐いた。朝食に出された食感の悪いライ麦パンを出し切ったあとも続いた。ただそれを払拭したくて、アルフは装填を終えたあと汚物を消毒するように敵を撃った。極端に狂うと冷静に寡黙に撃てた。

 銃の良さを思い知った初陣だった。あの肉の感触を味わうことがない。

 兵舎に戻っても、現実の残酷さに慣れなかった。食事は喉を通ることもできず、仲間が無理矢理アルフの口に押し込めた。入隊して二週間足らずで赤に近かったブラウンの髪は白髪に変化してしまった。

 純粋に愛情を受けてきた幼い心には、相当な負荷を背負っていった。それでも戦争は激化していき、除隊出来ないまま分からなくなっていく。

 何が、と明確にする気力も余裕もない。


『戦争だから諦めろ』


 上官は出陣の度にアルフに言い聞かせた。


 戦争だから殺せ。


 敵だから殺せ。


──相手も人なのに?


 それが戦争だ。

 自由を勝ち取るためには殺すしかない。


──彼らにも家族がいるのに?


 ならばお前は許すのか。黙っていいのか。

 国を侵略され、更に家族までその手が及ぶのを。


 臆病者。


 言われてアルフは完全に諦めた。

 戦争だから殺した。敵だから見つけたら殺すしかない。同年代で痩せこけた少年も、子どもがいると主張した気弱な男も。全員、戦争を理由にして、せいにして、二年が過ぎた。

 エピストゥラ軍と大国軍の二つの勢力のぶつかり合いは戦争開始から後半になると、周辺諸国を巻き込んだ大戦に様変わりした。国際情勢がようやく重い腰をあげてエピストゥラ軍を擁護した。

 これにより、世界中を敵に回した大国は敗戦の一途を辿る。皇帝は家族揃って亡命に失敗し、国際裁判によって死刑を言い渡された。正妃から戦争推進派の貴族までもが公開処刑となった。

 死体は埋葬されることはなく、烏の餌になり、二年に渡る戦争はあっという間に終結した。

 大国は国際組織の手によって解体され、植民地だった祖国はエピストゥラ大公国となって生まれ変わった。

 数百年の歴史を誇った大国の正式名称は闇へと葬り去られた。覚えていても、誰も口にはしない。当時のことを思い出したくないからだ。ただ大きな国だったということで、誰かが“大国”と呼ぶようになった。


 アルフもその一人だ。


 休み時間を報せる鐘が鳴り、アルフはチョークを置いた。板書した文字は残し、子どもたちがあとで消してくれる。教壇には未だに熱冷めやらぬ少年たちが集まってアルフに質問攻めした。

 喉をさすりながらアルフはそそくさと逃げる。言い訳はいつも水分補給。実際は精神安定剤をかじりに戻っているだけだ。口のなかにある粉々になった錠剤を水で流し込んだ。

 以前より薬の依存は軽くなってきたようだ、と医者に言われたが、自分自身は自覚がない。トランクをぼうっと見つめて物思いに耽る。傷だらけのレザーのなかの奥には、ピストルが凶悪な顔をして今か今かとアルフが手に取るのを待っている。

 戦争が終わって六年経った。


 終わったのに。

 書類上も、世界の認識でも、戦争は終わったはずなのに。平和になった。


 それなのに。


 アルフは武器を手放すことができなかった。


 飢えで苦しむこともなくなった。

 寒い。

 辛い。

 憎い。

 苦しい。


 負の感情を幾度も追憶する。もうその日は来ないのだと頭では理解していても、心はそれに追いつけない。

 武器を持ったまま帰還した少年に、家族はなんと思っただろうか。

 皺が増えた父は何かを察したようにゆっくりとアルフを抱きしめた。熱く、他人事のような温もりがしたのをアルフは強く覚えている。アウラは泣きながらアルフの無事を喜んだが、エマは武器を手放さない弟を不気味に見つめていた。七歳のデイジーは何も理解しておらず、退屈そうにお下がりのぬいぐるみを抱えていた。

 家に帰ってきたとしても、アルフは安心しなかった。自分にとって安全な場所を探した。帰還して数ヶ月は銃を離さなかった。


「もう終わったんだよ、アルフ」


 アルフから銃を取り上げることを諦めた父は毎日アルフを向き合った。対人不信をこじらせた少年にどうしようもない、とエマや友人たちは深く関わろうとしなかったのに、父だけは離れなかった。時にはカラムスの街を歩いたりもした。眠れない苛立ちを抱えた時にも病院に連れて行き、睡眠薬と安定剤を処方してもらった。叫びながら起きるときがあるといつも早く駆けつけて温かいミルク──こっそり買って隠していたたっぷりのハチミツ入り──を持ってきて抱きしめてくれた。

 少しずつ意味不明な症状が緩和されてきたタイミングで父は過労と病で倒れた。

 あっけなく死んで、あっけなく白い骨に変わって教会の地下墓地に母の隣に埋葬された。


「アルフ」


 最期、父はやせ細った手でアルフの頭を撫でた。姉たちや妹は泣いているのに、アルフだけは涙を流すことも、目尻に溜めることもなかった。そんな薄情な息子の態度に父は笑って許した。


「お前はまだ、これからも、もっと苦しむんだろうね」


 ギスギスした空気で食卓を囲む家族。わざと時間をずらして一人食べる息子。周囲の雑音を気にして目を忙しなく警戒させる姿。どこまでもお人好しだった父は殺人鬼となって壊れてしまった息子を心配していた。自分の方が、病気で苦しいだろうに。


「でも生きてくれ」


 呪いの言葉を父は遺した。


「軽んじないでくれ。苦しみの果てがなんなのか見つけるまで、広く周りを見て、足掻いてくれ」


 それしか自分は言えない。

 瞼をゆっくり下げながら、愛してるよ、と呟いて生涯を閉じた。


 父という大黒柱を失ったナイチンゲール家を生かすため、アルフは勉学一点に集中せざるを得なくなった。学費は出兵による教育の遅れを取り戻さんとする国の方針のおかげで免除され、誰よりも早く修了した。

 物覚えが良かったことが幸いだった。同い年の少年少女に追いつき、無事、十五歳で中等部を卒業。初等部の教員試験に合格してアルストム城跡の初等部の教師になった。軍部から戻ってこないか、と打診があったがアウラたちの猛反対にあって軍人の道は自然と途切れた。

 教員の仕事はとても楽しい。

 楽しいが生き甲斐を感じるほどではない。

 それに今も、家族とは上手くいっていない。デイジーは幼かった頃から無邪気で懐いてはくれるが、それにどう答えて良いかよく分からない。次女のエマは分かりやすくアルフを嫌っている。長女のアウラはどう思っているか知らないが、ひどく心配をかけていることは分かる。


 アウラ。


 彼女には迷惑をかけてばかりだ。


「プレゼントねえ」


 ぼそりと呟いて椅子の背もたれにもたれかかり、仰ぐ。天井には流石は元城だったことはある、と唸るほど見事な宗教画が施されていた。愚鈍なる王に苦しめられた民たちが聖女と聖人の誕生を祝うという図だ。

 たくさんの祝いの品を笑顔で受け取る幼い聖女の心は果たして喜んでいるのだろうか。もしかしたら内心では迷惑だと思っているのではないだろうか。聖女とアウラの姿が重なって見えた。

 装飾品は駄目、多忙で落ち着く暇もない姉への贈り物は難題だ。それを嫌がらせのごとくエマから任命されて頭を抱える。

 女の趣味を一つも知らないのに。


「ここは直接、女性に聞いてみるしかない、か」


 アルフは決意して職員室を出た。

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