紙の花
本条凛子
追憶のプロローグ
拝啓、親愛なる──
手紙を書くなか、アルフ・ナイチンゲールは絶望の中にいた。濃い空のブルーの瞳は涙に潤み、今にも下瞼から溢れようとしていた。
慣れているはずのタイプライターをうつ指はぎこちなかった。
ペンで書こうとした書き損じの手紙は足下で屑となって散らばっている。ペンから溢れたインクの染みは、彼の涙でもあった。
今。
彼は全てを失っている。
失った。
見失っていた。
大切な人だったはずなのに。
ようやく大切だと気づいた時にはアルフの目の前から消えていた。二度と戻ってこない、と重々承知している。
それでも。
彼がその相手に何かを贈ろうとしているのは確かで、手紙はその第一歩である。
上品な漆黒のタイプライターのすぐ隣、猫足のテーブルには幾重もの紙が置かれていた。バラにスミレに、ローダンセ。花の絵が添えられているレターセットとは違う。真っ白な紙の束。厚さはそれぞれ。肌触りもそれぞれ。
何に使うか皆目見当がつかない。ともに置かれているはさみ、カッターナイフがあることからして、切ることもあるのだろう。また、色も付けるのか、絵の具の材料もある。
これらを使いこなしてできあがるのは、精巧な紙の花だ。
親愛なる、で止まってしまったアルフの指は、一度タイプライターから離れ、再度打とうとし、迷って結局は中断した。伝えたいことが多すぎていざ書こうとすると、何から書くべきか迷走してしまう。とうとう何も書けなくなったアルフは、立ち上がって部屋を出た。
もしかしたら、を求めていた気持ちはあっという間にしぼんだ。
そこに大切な人はいなかった。あるのは、その大切な人とともに育んだ品と空間だけ。優しいブラウンの壁紙に暖色の灯り。照らされたテーブルや棚には、たくさんの紙でできた花が並べられている。
アイリス。
カーネーション。
スイートピー。
ヒマワリ。
勿論バラもユリも、種類は豊富だ。
材料が紙だとは思わせないできばえだ。緑を流れる葉脈、花びらの筋、繊細な輪郭。よく見なければ生花だと錯覚してしまう。
美しい生花を手に入れることが難しいこの国で、紙工芸品としての頭角を現しはじめた紙の花を、大切な人だったウォークス・シトレーは
宝石よりも輝かしい思い出の品ばかり。
もう二度と。
くしゃりと顔が歪む。
とうとう目尻から涙は落ちて銃痕のある頬を滑り、床に潰れた。
もう二度と、ウォークス・シトレーとこれらを作る日々は来ない。
何故なら彼女は死んだのだから。
悔しくて仕方なかった。
顔に出来た頬を掠めた銃痕をなぞる。
もう一度。
もう一度。
アルフは客人を持て成すはずの長椅子に寝転ぶ。柔らかなクッション仕様に温かくて甘い香りに包まれ、瞼をとじる。店に来る者はいない。もしかしたら、二度と来ないかもしれない。それがいい。それが、最善だ。
もう一度、その店主との日々を夢に見よう。
思い出すのだ。
これ以上失わないように、何度も。
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