16.幸せは必ず来る

 冷めた料理を温めなおす頃、雨が強さを増した。タクシーで帰ろうとするウォークスを引き止めたのは、アウラだった。気温が下がった空の下、タクシーを待つのは体を崩してしまう。まだある料理を皿によそってテーブルに並べ、ナイチンゲール家は肩を寄せ合った。椅子の補充はエマの部屋から。

 さあ、どうぞ。

 用意された空間に、拒めなくなった彼女は座ってから、会釈した。小さく、肩を寄せて、祈りを捧げる。そのあと、お腹を梳かせた家族は素早くナイフとフォークを握りしめて、料理に手を伸ばした。

 贅沢な食事は、あっという間だった。

 ウォークスの口に合うのが心配だったアルフは時折、彼女を見た。心配は無用だったらしく、アプリコットの瞳を美しく輝かせ、頬はチークよりも紅潮して、リスのように料理を頬張っていた。


『美味しかったです。皆さまにありがとうとお伝え下さい』


 食後の紅茶の時間、アルフとウォークスは二人きりになっていた。ウォークスに聞きたいことがある、と聞いていると、アウラたちにアルフの部屋へと押し込められたのだ。この時の姉二人の表情は、弟の異性関係で乙女心を満たそうとする邪なるものだった。

 背中をエマとアウラに押されながらも、デイジーに救いを求めたのだが、結局宛てにならなかった。

 妹は顔を赤くさせて、


「悪いことをしたら駄目だよ、お兄ちゃん」


と言って姉たちの邪な遊びにのっかった。

 恐らくだが、三人どこかで立ち聞きしているに違いない。

 とうのウォークスはというと、魔女三人の思惑を知ってか知らずか、興味深くアルフの部屋を見回していた。


『殿方の部屋は、はじめて入りました。私の部屋よりも綺麗ですね』

「は、はは……」


 なんて言えばいいのか困った。彼女の部屋は作業部屋も兼ねているので、ひどい有様だった。特に作業する机周りは紙屑がたくさん積もっていた。


『ところで、アルフさまが聞きたいこととは、なんでしょうか?』


 アルフはベッドの淵に座り、ウォークスもその隣に座り、タイプライターを椅子に乗せている。


「その、いつ、知ったんですか?」


 彼女が首を傾げてこちらを見る。


「ええっと、姉さんが、ウサギと猫が好きなこと、なんですけど」


 このことをアルフが言ったことはないし、もとよりアウラの好きな動物など、全く知らなかった。作業場にあったラッピングなどを収納している棚があったが、そこにあの柄と色はなかったはずだ。だとするならば、あの紙は今回仕入れたものではないか。

 いったいどうやって知ったのだろう。


『エマさまからお聞きしました』


 情報の元はエマだった。アルフとは別に工房に来ていた。


『なので今回はアウラさまのために仕入れました。エマさまがヴィクトリカと一緒に仕入れにも行って下さいましたよ』

「えっ──じゃあ、エマ姉さんが夜遅く帰ってきたのは」

『なかなかエマさまが納得する紙が見つからなくて焦りました』


 ようやく納得するものを見つけたのは、ヴィクトリカが懇意にしているデザイナーのデザイン画だった。女性と子ども受けするというテーマで作られたウサギと猫のデザイン画はそう簡単に手に入らなかった。没にしたものだから渡せない、と拒まれたのだ。

 なので毎日、エマは説得に向かった。

 きつい煙草の煙を吐かれても。

 甘すぎる香水まみれの部屋に案内されても。

 失礼なことを言われても。

 エマは諦めなかった。

 大好きな、母の代わりまでしてくれた姉のために。

 同じだった。アルフと気持ちは同じだった。恋人が出来たわけではなかった。

 件のデザイナーはひどく捻くれていた。すでにエマたちがはじめて来た日に印刷を依頼していたらしいのだ。アウラの誕生日ギリギリになってそれをエマに渡した。提示された料金を払うと同時に、姉は今までのお返しと云わんばかりに彼のデザイナーの足先をおもいきり踏んでやった。

 ここまで伝えたあと、ウォークスはそういえば、とタイプして話を変えた。


『エマさまも、アルフさまとのことも仰っていましたよ』


 不安で仕方ないのだ、と。

 アルフがどれ程マシな状態であるか、エマはしっかりと知っていた。心に傷を負った兵士たちは、時折暴力という感情の爆発を起こす。

 帰還した当初、アルフも意味もなく暴れた時があった。そしてエマを怪我させたこともある。病院に根気よく付き合って、落ち着いて、それから溝は深まって。エマは根気づよく待てなかった。アルフから歩み寄ってくれることを勝手に期待して、勝手に失望してばかりで辛いのだ。

 そして怖い。

 エマはそう言って泣いていた。

 アルフがもう何も言わなくなってしまうのではないか。遠くに消えてしまうのでは。

 エマの本心をここで聞けるとは思っていなかったアルフは言葉に詰まった。喉奥から熱が這い上がって、目頭が痛い。


「どこにも、行かないのに……」


 行ける場所など、消える場所など、どこにもない。


『アイリスは昔、虹の根元に咲くと言われていました。知っていますか?』

「……いいえ。はじめて聞きました」

『アイリスは虹の女神が救われた時に産まれたものなのです』


 とある神話、とある女神に仕えるとある侍女がいた。神々の伝達を担う彼女はなんと、主である女神の夫から執拗に求愛される。困った彼女は主に懇願し、虹の女神へと変わった。その時に地上に咲いたのがアイリスだった。

 花言葉はそこから付随する。

 虹は雨が上がる時に出来る現象。雨の多いエピストゥラではよく見られるものだ。


『止まない雨などないのです』


 虹は終止符の象徴だ。

 きっとこれから好転する。そんな気がした。ウォークスの横顔が美しく告げている。


『アウラさまのことを話して下さったのも、エマさまですよ。アルフさまは、カキツバタの花言葉を、ご存知でしょうか』


 ふいにウォークスがこちらを向いたので、アルフはつい目を反らす。上へと視線をあげて記憶を巡った。この行動を、彼女が不思議に思った様子はない。

 確か、デイジーが花言葉を独り占めしている横でちらりと見た。カキツバタもアイリスと一緒のページに載っていたと思う。記憶力の良さがここで役に立つとは。

 確か。


「あっ」


 思い出してアルフは声をあげた。

 そしてウォークスに微笑していた。その笑みに、申し訳無さそうな罪悪感はなく、心からのものだった。彼女も、微笑んでいる。


「ありがとうございます」



『カキツバタの花言葉

 幸せが必ず来る』

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