エマ・ナイチンゲール 二幕目
男──ナタン・ロンヴェーから昼のお誘いをされたと同僚たちに伝えると、大盛り上がりした。まるで学生時代に戻ったかのように。
あの捻くれていそうな男から、どうやってランチがお誘いがあったのか、彼女たちは邪な考えをエマを目の前にしても普通に話しはじめた。挙げ句には、これが正解かどうか、と聞いてくるので埒が明かない。
「きっと気まぐれよ」
そうに決まってる。
恋愛の甘い香りなど、今の自分には無関係だし、家族の問題も解決していない。澄まし顔のエマに皆は不満げだが、年の近い同僚一人と年上の姉のような先輩一人が、頑張りなさい、とただ一言だけ告げて淡白にエマを見送ってくれた。
二階のカフェーの内装はとにかく落ち着き払ったココアブラウン。美しい飾りのついた格子状の窓には、落ち着きのある金糸の唐草模様の広がるアンティークグリーンのカーテンが掛けられている。中央には蓄音機が置かれ、横の棚にあるレコードを給仕の男が選んで蓄音機にセットしている。
賑やかで軽やかな音楽がカフェーのなかを華やかにしている。
窓際の、良い席はナタンによって予約が済まされ、すでにエマを待っていた。
「大変お待たせしました」
「いや、あまり」
つい来たばかりだ、と言ってナタンはエマを向かいの椅子に座るように促した。
緊張の面持ちで座るエマを楽しげに見つめている。
「今日はランチに誘って下さって──」
「いい、いい」
かしこまったエマの言葉を遮ってナタンは手を横に振る。
「プライベートだ。せっかくの休み時間をそうかしこまるようにしなくていい。それと敬語は止めてくれ」
「は、はい、わかり──分かった」
「よろしい」
満足げに頷いてテーブルの隅に置かれた小さなベルを軽く鳴らす。耳の良い給仕が慌てて、でも静かにナタンのもとにやってきた。
「クロックマダムのセットを二つ。食後に紅茶を二つ。一つの紅茶にはミルクと角砂糖五粒用意してくれる?」
「かしこまりました」
エマが何か言おうとする前に注文の時間は終わった。
給仕の姿がキッチンの奥へ消えていく。確かここのデザートのケーキはとても美味しいのだと教えてもらったのだ。食後に欲しいと思っていたのに。
「デザートはまたあとで頼めばいい」
見透かしたかのようにナタンが告げる。
「あの……お代は」
「払う」
「え。あの、私、自分のは払うわ」
「いい。いいんだ。せっかくの時間をこう消費させたんだから」
「でも……」
口ごもるエマにナタンは静かに微笑んだ。
「君のこと、放っておけなくて。ため息ついてただろ」
「……」
「あのため息は、とても悩んでいるもの。そうじゃないかい?」
「はい……」
正直に頷くと、ナタンは前のめりにエマに顔を近づけた。真面目な表情で。端正な顔をしている。傍目からしたらこんな男が実は可愛いものが好き、とは思えない。
「僕も、覚えがある」
突然の告白に目を見張った。
この自己主張の強い男に悩みなんて、本当にあったのだろうか。
ナタンは懐から一枚のカードを取り出した。
『紙花工房 シトレー
店主ウォークス・シトレー』
飾り気の無いシンプルな名刺には、エマも知っている店の名前と店主の名前が刻まれている。昨日、アルフに対して酷いことをした場所であり、複雑な痼りのある場所でもあった。
「僕はね、この店に救われたんだ」
「救われた?」
「うん。ちょっと前にね」
キッチンから香ばしいバターの匂いがする。それに二人はゴクリと唾を呑み込んだ。
「もう少しで来るさ」
「そうね」
「話を戻そう。僕の嗜好については、君はよく知っているだろう? 可愛いものが好きっていうの」
「……ええ、まあ、はい」
「僕はね、少し前までこの嗜好を家族から馬鹿にされてた」
そりゃあ、もうたくさん傷ついた。
ナタンの言葉にエマは自分のことのように心を締め付けられた気分になった。自分もそうなってしまうのだろうか。それに気づかないナタンは昔の話を進める。
「ウサギが好きとかさ、リボンが好きとかは、子どもみたいでおかしいって。でもさ、止められないよ。好きなものは好き。これは誰かに止めろと言われても否定されても変わらないことだろう? だって僕のことなんだから」
それなのに、家族は止めろという。
無理な相談だ。でも、家族が好きなことに変わりなくて。
板挟みに何度も揺れた。そんな時、
衝動買いをして、家族に贈った。
どうだ、可愛いだろう。
どうだ、美しいだろう。
心を打たれるだろう。
そんなものを、自分は好きなのだ。気持ち悪いと言われようが、おかしいと言われようが、好きなものに心惹かれるのは人間の本能だ。
完全にナタンは開き直った。デザイナーである彼の情熱は仕事に生かされ、評価されてきている。可愛いもの、美しいもの、それを繊細に描くのは好きだから。
それにうっとりするのは、世の女性たち。
家族はもう感嘆に絆されている。
「あの時、あの店を見つけられなかったら、僕は人間として、死んでた」
聞き終えたエマは目を見張っていた。デザイナーだったとは。
「もしかして、ヘブンリー劇場の戯曲『薔薇公女』のポスターを手がけてませんか」
ムーサ通りの北に、カラムスが誇るヘブンリー劇場がある。美しいコバルトを鏤めた玄関ホールはまさに天上の如くと言われ、そこで演じることはエピストゥラの舞台役者たちの大きな夢でもある。
薔薇公女は悲恋の戯曲として有名だ。薔薇に囲まれたとある公爵家に仕える騎士と公爵家の末娘が惹かれ合うも、当主は許さず、騎士にいくつもの難題を与える。騎士は難題をいくつも突破して行くが、最終的に大きな戦争に駆り出され、戦死してしまう。戦死を知った娘は発狂してしまい、薔薇の棘のなかを歩き回り、血塗れのまま死んでしまう。その時に歌う詩はあまりにも陽気な内容なのだから、娘の狂い具合が伺える。その狂気さと美しさの兼ね備えた薔薇公女はとても人気でため息が出てしまう。
エマもあまりの美しい恋物語にうっとりしたものだ。そして当初はポスターが美しい、と有名で、一時間に数枚の早さでポスターが盗まれた。確かにあの美しい薔薇の花に囲まれた美しい少女の横顔はとても素晴らしいものだった。
「そうだよ。最近はまたヘブンリーのポスターを手がけてくれないかって、依頼がきてる」
「わ、私、あのポスター、好きなの! 他にも戯曲の挿し絵までしてるでしょ? 持ってるわ。特に死が二人を結ぶまでの戯曲の挿し絵は素晴らしかったわ。ヒロインのドレスとかもフリルがよく似合ってて、最期の花嫁衣装なんて可愛くて着てみたい、って──」
エマは口を噤んだ。
ナタンが唖然と見つめていることに気づいて。
「ご、ごめんなさい、変に喋りすぎて」
「いや、君も、その、ファンだったことが分かってびっくりしてるだけ」
お待たせしました。こちらクロックマダムです。
給仕が現れて気まずい空気にクロックマダムを置いた。クロックムッシュの上に卵を乗せて更に贅沢にした食べ物に、視線がいく。温かいスープもついている。
「食べよう。冷めたらまずくなる」
「……そうね、食べなきゃ」
半熟の目玉焼きの黄身を割り、濃厚なチーズとベーコンを挟んだパンに染み込ませ、一口。
「美味しい!」
口のなかで香ばしく焼かれたパンに、もっちり濃厚なチーズが踊っている。素敵な一時に、エマはナタンと微笑みあった。
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