10.ぐちゃぐちゃ
紅茶の苦い匂いがして目が覚めた。アルフが最初に見たのは見知らぬ綺麗な天井だった。温かい毛布がかけられており、良い匂いがした。病院ではないことは確かだ。隣に人の気配を感じ、目を寄越すとウォークスがタイプライターを膝に乗せ、アンティークの椅子にちょこんと座っている。小さなテーブルには紅茶用のポットとカップが二つ、置かれ、湯気が空へと揺蕩っていた。ウォークスは紅茶を一口ずつ、膝の上のタイプライターに零さぬように上品に飲んでいた。ふとアルフを見て起きたことに気づいた。カーボン紙を深く内蔵させ、打ち込む。たくさんの言葉なのか、時間がかかってからアルフの目上にカーボン紙を広げた。
『おはようございます、アルフさま。
体調は大丈夫でしょうか? 吐き気などはありますか? もしあったら仰って下さい。トイレはこの部屋のすぐ隣にあります白湯と紅茶、どちらがいいですか?
ヴィクトリカがアルフさまのご家族のもとに連絡を入れてあります。少し休んでから、お帰り下さい。失礼ながら、鞄のなかを見ました』
──見られた。
アルフは唇を歯嚙みした。トランクのなかには護身のためのピストルが入っている。他者に知られるのは嫌なものだ。
『お薬の瓶を見つけました。持病のお薬はこちらですね?』
ウォークスが精神安定剤の薬の瓶をアルフの枕の横に置いた。あの青白い顔はほんのり困ったピンクの色をしている。気にはなったが、カーボン紙に続きがあったのでそっちを最優先する。
『それと、手を離して下さいますか?』
手──?
そういえば自分の右手は何かをつかんでいるような。アルフは右手を何気なく持ち上げてみる。右手と一緒に上へと移動する絵の具汚れのあるクリーム色の布。ウォークスの着ているワンピースドレスの裾だ。気づいてアルフは手を離した。ドレス下のペティコートが見えて気恥ずかしい思いでいっぱいだ。ウォークスの頬もピンク色の濃さを増し、白湯の入ったカップを指差したあと、そそくさと部屋を出てしまった。
どうしようもない恥ずかしさを隠すようにアルフは起きあがり、枕横に置かれた安定剤を飲んだ。
そしてカップのブランドに気づく。大切に育てられた牛の骨を材料にして作られた白さ、そしてシンプルながらも美しい金とブルーの模様と着色。これは西方の島国の有名なブランド品ではないか! 女教師たちのやかましい会話から聞こえたところ、セット一式で新品の自動車が買えるほどの値段。ふと、周囲を見ると、ほとんどの家具が高級ブランドのもので溢れている。今、横にさせてもらっているベッドだって豪華な唐草の彫り物がされている。
なんてことだ。めまいと気持ち悪さはどこかへ吹き飛んでしまった。
戻ってきたウォークスはどこかすっきりした顔をしていた。まさか、トイレを我慢していたのか。
『白湯のおかわりはいりますか?』
「……お願い、します」
汗による脱水で喉がカラカラになっている。白湯のおかわりが注がれたコップを受け取って飲む。飲み干してカップを返すと、ウォークスが体を屈めてハンカチーフをアルフの頬に滑らした。丁寧に汗を拭ってくれる彼女からは絵の具の匂いがした。
「あ、ありがとう」
礼を言うと、彼女は困ってようなはにかみを見せた。アンティークチェアに行儀良く座り、膝にタイプライターを乗せて紙をセットした。アルフに文字が見えるように体の向きを変えている。
『体調は、大丈夫でしょうか』
「……だいぶ軽くなりました」
『良かった。ところでどこかに用事があったのではないですか?』
用事、と聞かれてアルフは気まずい思いでいっぱいになった。彼女に用があって来たのだ。それなのに。ぎゅっと毛布を握りしめる。道中にパニックを起こしてしまい、彼女に見られた挙げ句面倒をかけてしまっている。恥ずかしさで毛布のなかに潜り込みたくなった。
隣のウォークスは、じっとアルフを見つめて返事を待っている。
「手紙──あなたからの手紙を受け取って、それで、花のことについて、あなたに相談したくて……あの日からなかなか決まらないんです。贈る花をどれにするか」
仕事が忙しくて、と言い訳しそうになり、アルフは口を噤んだ。それだけではないのに。
『エマさまが仰っていたバラになさいますか? それとも、チューリップに?』
「いや、その、アウラ姉さんにバラとチューリップは、あまり似合わないと思って。──すみません、これ、早めに言うべきもの、でしたよね」
苦笑いとともに謝ると、ウォークスは首を小さく横に振った。
『いいえ。大丈夫ですよ』
優しい印字に、つい甘えたくなる。
「なかなか、言えないんです」
つい口が動いていた。
「エマ姉さんに、意見とか、なんて話していいか分からなくて」
『仲が悪いのですか?』
「そうなのかもしれません。昔は、良かったんです。喧嘩は勿論たくさんしてたけど」
昔──喧嘩の仲直りはどうしてただろう。父が叱ってそれから、たくさん泣いて落ち着いた頃、ささやかな和解の抱擁をした気がする。幼い頃は簡単に仲直りできていた。
「戦争に行ってから、どうしていいか、わからなくて」
その一言にウォークスが息を呑む音がした。
かたん。小さく一文字、キーボードが震える。それからゆっくりと文字がカーボン紙に写し出される。
『出兵されたのですか』
「──十一の時に、志願しました」
志願して、勝手に正義感を持って、勝手に失望して。国のために人を殺してきた。
「俺の手は、汚れて、るんですっ……!」
必死に絞り出した声はひどく震えていた。溢れる激情を抑えるように顔を両手で覆う。
「終わったのに……! もう八年も、経ったのに、ずっと、心が追いついてこないっ」
新聞記事が床に落ちているのが目に入った。紙面を大きな題目が仰々しく占領している。
──スリズィエ・エピストゥラ公女殿下、未だ病床。快復に至らず。
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