13.アウラの帰省

 時間は怒濤のように過ぎた。

 休んだ次の日に学校に行くと、生徒から他の教員たちにまで心配の声をかけられた。見舞いと称しての動物の折り紙と拙く小さな手紙も。純粋な気遣いと敬慕の気持ちが綴られており、アルフははじめて嬉しいと口に零した。

 エマは相変わらず、夜遅い時間に帰ってくる。そしてアルフとは何も進展しない。彼女は煙草や男性の香水の匂いを纏っているのだがら、もしかしたら、好い人が見つかって、その人とデートなりしているのかもしれない(女性の喫煙者は少ない)。デイジーはというと、タイプを正確に早くを目指して、図書館や本屋から気に入った本を持ち出しては部屋に籠ってタイプライターを鳴らしている。よく見れば、変わりない。

 過ぎていくのは早い。

 あまりの早さにアルフはアウラに電話をかけた。贈りたい花は見つかった、とウォークスが言っていたが、その相手はもしかしたらエマかもしれない。そしてあの日から何も連絡がないのだ。きっと紙花ペーパー・フロースは出来ていない。申し訳ない気持ちで漆黒の受話器を握る。


「アウラ姉さん、ごめん」


 普及して浅い電話は、公共の施設や寮、大型商業施設、それから都心のアパートメントの一階ぐらいにしかなく、個人が持っていることは少ない。アルフはアパートメントの一階に降りてアウラのいる寮に電話をかけている。

 寮母らしき人が出て、アウラに取り次いでもらう。暫くしてアウラのもしもし、という声が届いた。

 久々に聞いたアウラの声は昔と違って溌剌としていた。


「今年の誕生日プレゼントが間に合いそうにないんだ。時間がかかるかも」

『なに? そんなことで電話してきたの?』


 面白そうにアウラが笑うものだから、アルフは思わず苛立った声を出す。


「なんだよ、その言い方」

『──ごめん。別に変な意味はないのよ。皆が毎年考えてくれてるのが嬉しくて。でも──』

「でも?」

『皆それぞれあるでしょう? アルフだって、エマだって、デイジーだって』

「アウラ姉さんだってそうじゃないか。俺たち、皆、姉さんに感謝してる。だから」


 アウラが母と姉の二つの役割を担う前、彼女には恋人がいた。それなりの良い人で、良い職業に就いていた大人の男性だったと幼いぼんやりとした記憶が物語っている。上手くいっていた。ただ、一人息子だったのがいけなかった。

 母が死に、家事全般の重荷がアウラへ向かった。エマもアルフも手伝うよう努めたが、幼い努力は空回り、アウラの荷は増えるばかり。そうなれば自然と恋人と過ごす時間は減っていき、結婚の道は遠のいていく。しびれをきらしたのはアウラだった。ずっと待つよ、と恋人は言ってくれたものの、恋人の母親が急かす。片親だけの収入ではいけない、と看護婦になったアウラを、恋人の母親は好ましく思わなかった。

 数十年前まで看護婦という職業婦人は不名誉的な意味での訳ありの女性であるという認識と誤解があったせいで。

 未だにその先入観を持つ人間はエピストゥラにはいる。恋人の母親がその例だ。


 大事な一人息子に訳ありの女を宛てがおうとする親がいると思う?


 会う度にそう言われれば気が滅入るものだ。別れを一方的に切り出して帰ってきたアウラは、弟や妹たちの目の前で泣くのを必死に我慢して、こっそり夜中泣いていた。父が寄り添い、背中を震わせる姉。いつも笑っていた姉の姿には、エマもアルフも衝撃をうけたものだ。

 それから戦争が起こり、アウラの恋人も志願兵として出陣したと聞いた。アウラと別れて自棄になったのかもしれない。戦時中、アルフは常に彼の姿を捜したが、それらしき人は見つからなかった。終戦後も会うことはなく、未帰還兵扱いになっているのを風の噂で知った。

 アウラは何も言わなかったが、彼以外の男性と結婚するつもりはないだろう。

 故にアルフたち三人はアウラに頭が上がらない。

 感謝もあれば、申し訳なさもある。


「だから、それを形にして贈りたいんだよ。そんなこと、だなんて言わないでよ」


 受話器の向こうでアウラが息を呑む。


『アルフ……』


 驚きに満ちた、そんな声。


『あなた、今、久しぶりに意見を言ったわね』

「──あ」

『還ってきたあの日からあなたってば、いつも人の反応を見て、人のことを優先するから心配してたの』

「ごめん」

『謝らないで。私、嬉しいの。ところで、エマとは仲直りできた?』


 喧嘩をしている前提だ。実際しているのだが。


「なんとかする」

『ええ、なんとかしてちょうだい。今度の休みの日が誕生日から一週間ほどもらえたのよ。だから帰ってくるわね』

「えっ」


 誕生日当日に帰省など、明後日ではないか。


『果物を買ってパイをたくさん作ってあげる。──あ、ごめんなさい、急患が来たみたい! 援助に行かなきゃ、じゃあ、明後日帰るから! またね!』


 矢継ぎ早に電話が切れる。

 まさかの事態にナイチンゲール家は大騒ぎだ。新しいテーブルクロスを買い、ちょっぴり豪華な食事をしようとレシピを漁った。掃除もしっかりした。これでもか、というぐらい埃を見逃さなかった。

 アウラが帰省する前日の朝、ウォークスから手紙が届いた。休み時間の間に手紙を広げる。


『明日の夕方ぐらいに、商品をお持ちします』


 短くそれだけ。

 落ち着かないそわそわしたアルフを職場の人間たちは不思議そうに眺めた。眉間を寄せて机に向かい、うんうん唸る姿など見たこともなかったから。


 帰省当日。三人で駅に向かった。汽車から降りてくる乗客の群衆からアウラを捜す。


「あっ!」


 いつもはしない化粧をほんの少しめかしこんだデイジーが一点を指差す。


「いたよ、アウラお姉ちゃん!」


 指差した先、トランク二つ持ったココアブラウンの髪の女性──アウラが笑みを浮かべてアルフたちのもとへ歩いてくる。きっちり第一ボタンまで閉めたホワイトの襟シャツにアクア・グレイのロングスカート。黒のストッキングに包まれた足は革靴に収まっている。装飾は少なく、胸元のダーク・モスのタイと上着の左胸に輝く従軍看護婦を勤めた者に大公から贈られた勲章のみ。


「ただいま、皆」


 姉はいっそう美しい女性へと昇華していた。

 アパートメントに帰り、アウラは荷解きへと勤めた。デイジーはそれの手伝いだ。残されたアルフとエマは夕食の準備を黙々と粛々に──とはいかなかった。夕刻を示す時計と玄関のドアを何度も見つめては準備に、という集中力を欠いた行動ばかりアルフは行い、完璧に作業をこなせていない。


「アルフ、ナイフとフォークを置く場所が逆よ」


 皿にご飯を盛りつけていたエマがきつく指摘する。


「あ、ごめん」


 慌てて正すが、次は向きがおかしくなる。全く改善できなかったことにエマは不満げだ。唇の端をもごもごと何か言いたげにしながらナイフとフォークの向きを正した。


「外に出て頭を冷やしてきたら? このままいても邪魔になるだけだわ」


 残酷にも戦力外通知を受けたアルフは乱暴に部屋から出された。彼女なりにオブラートに包んだつもりなのだろう。しかし、アルフの心はどんより曇りはじめる。

 今日で仲直りしよう、と意気込んでいた勇気は今や風前の灯火に近い。

 情けない。

 階段を降りてアパートメントの玄関ホールを目指す。もしかしたらウォークスが来てるかもしれないと期待を込めた足取りで。

 途中、手すりを見つめてアルフは立ち止まった。昔、この階段で隣人の子どもと遊んだことを思い出した。手すりの上を勢いよく滑る遊びはとてもスリリングだった。落下する早さや大家と親に見つからないかという二重の意味のスリリング。

 手すりの強度を確かめて、周囲の警戒は怠らない。大家もいない。

 さあ、体重全てを手すりに──というところでアルフは硬直した。

 階下の玄関ホールに人が入ってきたからだ。ブラウンのコートを着た女性。真っ直ぐな黒髪を靡かせ、大きな紙袋を抱えてキョロキョロと周囲を見回している。チョコレート色のブーツを一歩踏み出すとレースとともにローズピンクのスカートの裾が緩やかに揺れた。紙袋を支える手は青白い。

 ふとその青白い顔がアルフへと振り向いた。

 宝石に輝く二つのアプリコット。

 ウォークス・シトレーだ。


「ウォークスさん!」


 声をかけるとウォークスは安堵の表情で会釈した。

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