8.デイジーの夢

 求人の内容は申し分ないものだった。給金も高め、仕事内容もハードなものでもなく、通勤のしやすい場所。

 そしてなにより、デイジーがその出版社を希望したのだ。


「どうして断りたいんだ?」


 質問しても妹はただ泣いて、だんまりを決め込んだ。ギュッとまっすぐに唇は引き結ばれている。


「デイジー?」


 見兼ねたヴィオラが立ち上がり、デイジーの肩をさすった。


「今日は帰った方が宜しいでしょう。アルフ先生については他の先生方に伝えておきます」


 ヴィオラの申し出にアルフは素直に従った。ひどい顔の妹を一人にするのは気乗りもしなかったし、心配であった。

 塔を出て荷物をまとめて駐車場へ行く。すでに荷物をまとめていたデイジーがヴィオラとともに待っていた。


「アルフ先生」


 妹を後部座席に乗せ、アルフが運転席へと足をかけたとき、ヴィオラが呼び止める。


「どうしました?」

「紙花の……フランチェスカお義母さまのことでちょっと……」

「何か、あったんですか」


 困ったように眉尻を下げるヴィオラが弱々しく見えた。いつも伸びている背筋が少しだけ、丸みがある。


「納品を延期にできるかしら……」

「それは」


 返答にアルフは困る。正式な工房の人間ではなく、弁償による小間使いなので明確に否とも是とも言えなかった。


「ウォークスさんに聞いてみないと分かりません」

「そうよね。改めて説明に行くとだけ伝えてくださる?」

「分かりました」


 安堵するヴィオラに軽く手を振って車に乗りこむ。帰り道もデイジーは沈黙をするだけだった。

 雨の降りが強くなる前にアパートメントに到着した二人はダイニングキッチンの卓へと移動する。

 濡れてしまったところをタオルで拭い、アルフは水を入れた薬缶をコンロへ置く。マッチを取り出してガス栓を開けたそこに火を灯した。


「珈琲を入れてあげるから、座って。今日も寒かったろう」


 唇だけ微笑んで見せると、デイジーは躊躇いがちに座った。無視されなかったことに安堵し、安物のコーヒーにミルクをたっぷり入れてデイジーに渡す。


「連絡してくる」

「……うん」

「宿題はここでしておいていいよ。おかわりがたくさんできるから」

「うん」


 淡白な返事に拒絶が垣間見えてアルフの心は迷子になる。これ以上の反応を求めても無意味であることは確実だ。諦めて一階へ降りる。

 少々腹の出っ張りが豊かになってきた大家から電話を借り、エマの職場へとかけた。交換手からデパートの事務へ、それからエマの担当する店、そしてエマへとようやく繋がった。今日はディナーデートだと張り切っていたエマは、アルフからの簡単な説明に、すぐ帰る、と冷たく短く言って電話を切った。

 心苦しさを抱えながら紙花工房シトレーへ電話をかける。交換手が出て数分のコール。


『もしもし』


 訛りのない発音が綺麗な声が受話器越しから顔を出す。ヴィクトリカだ。

 ウォークスは喋ることができないので当然彼女が出るしかない。──のだが、アルフはがっかりした。


『どうしたの?』

「ヴィオラさんから伝言があったんだ。葬儀に出す紙花の納品を伸ばしたいって」

『向こうからその要望がくるなんて……突然ね。葬儀関係で何かあったのかもしれないわ』

「説明にはくるそうです」

『そう、分かったわ。連絡ありがとう』


 今にも切りそうな雰囲気になったのでアルフは慌てて声を出す。受話器の向こう側でヴィクトリカの不機嫌な声が聞こえた。


「……ウォークスさんは、どうしてますか?」

『あの子ならいつもの作業よ。そろそろ寝かしつけるか、ご飯でも口に突っ込ませないと。ウォークスがどうかしたの?』

「少し気になっただけです」


 集中すると周りが見えなくなる人だから。そう続けようとして口が閉じる。それだけではないような、気がしたからだ。

 受話器からヴィクトリカの笑いを押し殺す声が聞こえる。ニヤニヤとしている彼女の顔が想像できた。

 想像しなきゃ良かったと後悔する。腹立たしい。

 アルフの顔が熱を帯びる。


「そういうことなので」


 ヴィクトリカの返事を待たずに受話器を置く。何かいいかけていたような気がしたが、気にしたら完全に負けだと言い聞かせた。

 きっとろくなことではない。

 アルフは首を横に振った。水気をきる犬のように。

 今はデイジーのことがあってそれどころではないのだ。浮かれそうになった自分を叱咤し、部屋に戻る。

 ダイニングの卓でタイプライターの音が聞こえる。早くなったり、遅くなったりを繰り返すデイジーの背中が今日はやけに小さい。


「エマ姉さんに連絡してきた」

「……そう」


 向かいに座り、デイジーと会話を試みる。目は交わることなく、デイジーの目はカーボン紙とキーボードを行ったり来たりしていた。


「このことはアウラ姉さんにも、今日中に連絡するよ」


 キーボードの打鍵音が止まる。末っ子のデイジーにとって母代わりのアウラはあまりにも大きすぎる存在だ。

 アウラに心配を掛けさせることを嫌がるとアルフは知っていた。

 案の定、デイジーは不満と焦りの顔でこちらを見る。


「アウラお姉ちゃんには言わないで」

「言うよ」


 いつも甘やかしていたが、今回ばかりはデイジーの意志を汲むことができない。


「いや! ひどいわ! なんで言うの?!」


 予想していた以上にデイジーは不満を呈する。立ち上がり、テーブルを強く叩いた。タイプライターの横にまとめられていた紙束が床に散らばる。


「あっ!」


 カーボン紙の一部がアルフの足元に降る。拾って見えた文字に興味を唆られて、内容を見る。

 教本の写しかと思ったそれは、アルフを驚かせた。

 台詞とト書きで構築された文章がアルフを引き込む。

 死んだ母親に会おうと、騎士が死後の世界へと旅をする。その序幕。

 これは間違いなく、戯曲だ。

 読んだことのないファンタジックさを内包させている戯曲だ。


「デイジーが書いたのか?」


 無言は肯定だった。

 アルフは理解する。

 デイジーには夢があるのだ。

 だからこそ、手に入れた内定を取り消したいのだ。

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