11.ウォークスの我が侭
エピストゥラ独立戦争が二年という早さで終わり、エピストゥラ側の勝利となったのは、周辺諸国及び国際組織がエピストゥラに味方したことが大きい。そこにはガルテリオ大公の三番目の子であり、末の娘であるスリズィエ・エピストゥラ公女の活躍があった。
開戦当時十二歳のスリズィエ公女は姉ローズ公女、母マルガ大公妃とともに国外にいた。体が昔から弱かったため、表向きは治療と称して極東の国に留学されていたが、開戦直前に渡航しているため、人質とならぬよう渡航させたのが本当の理由だろう。体が弱いのは本当で、足手まといになられては困るから。つまりは亡命だ。
そんな彼女が勝利と導いた功労者となった。
大国の罪状から当時のエピストゥラの領民の貧しい生活を事細かに綴った手紙を世界に贈り続けた。それをそれぞれの国の物好きな新聞社がいいネタだと食いついた。あまりにも詳細に、幼い必死さに駆られた手紙は記者の煽り文句によって各国の人間たちを巻き込んだ。人々の良心を大国への怒り、驕った正義感に掻き立て、ついにただ大国の衰退を静かに待っていた上層部は重い腰を上げた。戦後の援助を得られたのもスリズィエ公女の手紙とローズ公女の交渉による賜物だ。
帰国時、公女たちを乗せた漆黒の馬車を多くの国民が感謝とともに歓迎した。帰還した兵たちの凱旋パレードよりも賑やかに。
現在は体調不良が続き、この六年経った今でも公の場に姿を現していない。
余程他人に顔を見せるのが苦手なのか、彼女の肖像画は一枚も無いらしい。カラムスのインベル宮殿にエピストゥラ家の者たちの肖像画たちのなかにあるかもしれないが。想像して架空の肖像画が出回った。よく姿を見せる兄レオナルド公子と姉ローズ公女をもとに、どれも美しく描かれており、好みの公女像が広がった。金髪である。いや、ブラウンでは。もしかすると絶世の女神ではないか。
ミステリアスな存在でもスリズィエ公女の人気はとても篤い。
救国の公女。
手紙の女神。
桜の聖女。
多くの敬称を持つ。
そんな彼女がアルフは憎い。
綺麗な手で国を守り、安全なところから救った彼女がとても。
「な、んで……」
どうして安全な場所にいた人間がそうまで好まれるのか。
これが羨望と妬みであることはよく分かっている。安全な場所にいて平和を謳う公女がひどく憎くて、狂いそうになる。
なんてことだろう。
傷口に醜さが滲む。
俺だって綺麗でいたかった。
綺麗なまま救国の戦士でいたかった。
銃のトリガーの重さも、命の儚さを知らない戦士でありたかった。
──家族なのよ!
エマの悲鳴の嘆願が脳裏を過る。ここまでにこじれてしまうことなど、なかったかもしれないのに。戦場に心を取り残すことも、日々薬に頼ることもなかったはず。
「なんで、どうして、俺はこんなにも汚いのに!!」
アルフの両手は自身の肩を抱いたあと、頭を掻き乱した。見えぬ汚れを払うように何度も。体内に染みた罪悪と葛藤の汚れは涙となって頬を滑った。そしてまた、皮膚から浸透して循環する。過去から逃げることはできない。
涙の染みが数個できた頃、ウォークスが立ち上がった気配がした。タイプライターをアンティークチェアに置き、ベッドに乗り込んでくる。ただの衣擦れの音が神聖に響く。恐れることもなく、彼女はアルフの両手をつかむ。つん、と冷たい指先から手のひらへと包み、割れ物を扱うように優しく胸に抱きしめた。
アルフは恐る恐るウォークスを見る。汚い手を抱きしめる彼女はまるで痛いものを我慢している表情で柔く額を押し付けていた。そしてゆっくりとアルフへと向き直った。あのアプリコットの瞳は、強く太陽が霞むほど明るく照らしている。あまりの眩しさに思わずまた泣きそうになった。
八年分の涙が今、たくさんでてきそうになっている。
『あなたの手は』
彼女の薄い血色の悪い唇が動く。音の無い聲を聞き逃すまいとアルフは耳を澄ませて唇を凝視する。
『とても温かいです』
ああ。
──嗚呼。
何かが一つ、アルフの暗闇の底で溶けた。
『強くて、頼りになる──守る手をしています』
汚いと罵ることもなく、綺麗だと否定することもなく、温かいのか。そう、言ってくれるのか。
駄目だ。駄目だ、駄目だ、駄目だ。
アルフの心は幼く戻っていく。傷ついた子どもが必死につけて偽っていた大人の仮面が呆気なく剥がされた。アルフの喉奥から熱い嗚咽が漏れたと同時に大粒の涙が目尻から零れた。
今の自分は、ひどく幼い顔になっていることだろう。それでも、構いやしない。アルフは思いの丈を零した。
すがり付いてしまうほど、ウォークスという女は、優しく見つめるということが誰よりも上手い。
「ほん、とうはっ」
もっと幼くありたかった。
「ねえさ、んたちと、もっと、父さんとなかよく、したかったっ! みんな、とごはんを、したかったっ!」
ウォークスは黙ってアルフの言葉を聞く。
「でも、こわくてっ! しあわせになるのが、こわくて、わからなくてっ、どうしていいかわからなくてっ」
逃げないように、アルフの手を掴んで離さない。
「えま、ねえさんが、たくさ、ん……たくさん、俺のためにしてくれてるのに、ずっと、わかってたのに、なにも」
自分は汚い。人を殺してきた。安全なはずの家なのに落ち着かない。
でも。
でも。
でも!
「こたえたかった! 姉さんに、甘えたかった! 昔みたいに……昔みたいな、家族でいたかった!」
矛盾ばかりの心の葛藤が邪魔をする。こじれた負の糸はなかなかほどけない。
「それなのに、姉さんを困らせて」
怒っているような、泣いているような。あんな顔をさせたいわけじゃない。本当は何回も何十回も、それ以上に姉たちの家族として接したかった。抱き締めて、喧嘩して、他愛のない冗談を言い合う、彼なりの家族像。
もうこんなにも距離があるけれど。
「姉さんと、なかなおり、したい……!」
そう告げるとそっとハンカチーフが再びアルフの顔に宛てがわれた。とんとん、と軽く叩くように拭われる。
ベッドに座り込んだウォークスの髪が、アルフを包んだ。
『アルフさま』
唇が優しく名を呼んだ。音はないのに、何故か美しい響きのある声だと感じてしまう。もっと喋って、と我が侭を言う前に、彼女はタイプライターを手に取ってしまった。少しばかりの残念さに下を見ている間に、タイプの音がしてカーボン紙が渡される。
『これから行うことは私の身勝手なエゴです。アルフさまとエマさまが仲良くいて欲しいという私の我が侭に、お付き合い下さいますか?』
いったい何をするのだろう。顔をあげて彼女を見ると、真剣さを帯びた表情がそこにあった。青白い肌はどこへやら。今や生き生きと輝きを増し、あの弱々しく亡霊の不気味さは消えていた。
思わずアルフの心臓の奥が甘さを孕んで震えた。なんだこの熱は。己の胸に手を当てても、答えはでない。もどかしさに苛まれるアルフのことなどつゆ知らず、ウォークスは指の腹を唇の上をなぞり、視線を彼方此方に動かしたあと数度納得したように頷いた。そして、アルフを見つめて微笑する。月のように優しいとはこういう意味ではないか。
笑みを崩さぬまま、ウォークスは言葉を告げた。やはり音はない。
『あなたに贈りたい花、見つけました』
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