12.希望の人

 マッチを擦ってランプに灯す。ユラユラと火はランプのなかで楽しげに踊りはじめた。

 ベッドに休むようにウォークスから諭されたアルフは、横になりながら彼女の一挙一動を見つめ続ける。ランプから離れたと思いきや、ウォークスはお世辞にも綺麗とは言えない机に向かい合う。紙屑や絵筆が転がっている。それらを適当に片付け、椅子に座ると、紙を一枚、引き出しから取り出した。紙に鉛筆を滑らす音がして、次に鋏を取り出す。あまりにも早い手つきで紙を切り分ける。

 鉛筆の線を消し、絵の具の登場だ。


「……」


 彼女の視界は真っすぐ紙を見つめていて、アルフを一瞥することは無い。ウォークスなりの世界が構築されているのだろう。その世界はきっと美しいに違いない。

 いいな、と呟いた言葉を拾う様子も無い。

 少し寂しいけれど、彼女の職人の横顔はつい見惚れてしまうほど凛々しいものだった。絵筆を掴み、絵の具を混ぜ合わせ、それを紙に着色している。

 もっと見ていたかったのに、いつの間にか眠りに入ったらしく、目覚めた時には朝日が昇っていた。ボサボサの髪のウォークスが揺さぶって起こしてくれた。

 良い夢も、悪い夢も、見なかったほど深く眠れたのは久しく、すっきりしている。


「お、はよう、ございます……」


 成人男性の泣き言という昨日の醜態を思い出し、目を彷徨わせながら挨拶すると、ウォークスは目を瞬き、小さく微笑してカーボン紙を渡した。


『おはようございます、アルフさま。朝食を用意しました。ご一緒にいかがでしょうか』


 朝食の二文字に腹の虫が反応する。昨日、夕食を摂っていないので尚更腹の虫は大暴れだ。ウォークスは笑ってませんよ、といった顔をしているが、口元に手をあてて必死に笑いを堪えている。肩が小さく震えながらも、彼女は部屋から出るように促した。扉の先はこの間見た店のなかに繋がっており、雑談したテーブルには朝食が並べられている。


「店の奥だったのか……」


 私室兼作業場所だったようだ。

 開店前の店内は静かにノスタルジックに佇んでいる。商品に埃が被らないように薄い布が覆っていた。

 朝食は甘いものだった。贅沢に砂糖とバターを豊富に使うクロワッサンに甘ったるいココア。しかも白い絹肌を持つ食パンのサンドイッチ。白磁の皿に乗ってアルフを待っている。

 口のなかに入れた時のクロワッサンのサクッとした噛み応えはどのようにも表現しにくいものだった。ただ美味しく、アルフは病み付きになる。難点はその生地があまりにも脆く、下へと欠片が落ちていきやすいことだろう。白磁の皿でなんとか凌ぎ、ココアで甘さを五体へと巡らせる。

 食パンのサンドイッチもなかなか美味でアルフはすぐ平らげた。

 向かいに座るウォークスはまさに貴族の娘のように優雅な所作で朝食を処理している。


「美味しかった……」

「私が作ったから当然よ」


 ウォークスの隣でヴィクトリカが胸を張る。途中で昼食に顔を出した彼女は湯水の如くクロワッサン三個とサンドイッチ四つをココア五杯で平らげた。得意げな顔を様になるのだから美人と云う生き物はすごいものだ。あまり興味はわかないが。

 ヴィクトリカはウォークスの世話係らしい。食事の準備は勿論片付けから、店番まで。ウォークスを手伝う時もあるのだが、紙花以外は一等不器用さを発揮するようで、ご飯の準備に二時間以上皿の用意に三十分以上。塩と砂糖を間違えるおまけつき。掃除は壊滅的、いわゆる生活能力皆無者といえる。

 と、ヴィクトリカがため息とともに話した。

 笑いそうになったが、ついこの間まで食事などの家事を丸投げしている人間でもあったので、アルフは笑うに笑えない。青白い顔は朱色に色づき、ヴィクトリカをもの言いたげに睨むウォークスは愛らしい。それにちょっとアルフは笑ってしまう。目が合うと更に彼女の恥じらいは増す。

 優雅に食後のティータイムを過ごしているアルフだったが、時計を見た瞬間現実に引き戻された。


「しまった、仕事!」


 出勤時間はとっくに過ぎている。完全な遅刻だ。立ち上がるアルフを手で制したのは、ヴィクトリカだった。


「ご家族の方が仕事先には連絡してあるわ」


 エマが体調不良で倒れたことを伝えたらしい。校長と名乗る朗らかな男性が休むように言われたようだ。学長はアルフの短い学生時代の恩師の一人でもある。精神面についての相談事で今の病院を教えてくれた。


「あとでタクシー呼ぶから、それで帰って休みなさい」

「は、はあ」


 朝食後、ヴィクトリカの言う通り、タクシーが手配された。帰り際、ウォークスからカーボン紙を渡される。


『当分作業に没頭します。もしもの時はヴィクトリカに伝言をお願いします』

「わかりました、そうします」


 ウォークスの微笑みの見送りを受けながらアルフはやってきたタクシーの乗り込んだ。


「ルーベル通りまで、お願いします」

「あいよー」


 田舎訛りのある運転手が男気ある返事をして帽子を被りなおす。ハンドルを握る手にはタコや擦り傷があり、彼が別の仕事を兼業している証であった。


「見送りの嬢ちゃんは、お前さんのおひいさんかね?」


 はじめは無言だったが、途中で運転手は人の好い笑みを浮かべてちらりとアルフを見た。

 運転手の問いに思わず口が惚ける。

 おひいさん。お姫さま。ああ。

 意味を理解してすぐに苦笑して首を横に振った。


「いいえ、でも、彼女は」


 ふと視線を外す。赤煉瓦の建築物の群衆が見えてきた。アルフたちの住むルーベル通りだ。

 そして思い出す。


──アルフさま。


 彼女のアルフを見つめるアプリコットの瞳は宝石のように、一条の光のように確かに輝いていた。キラキラと、音のない言葉とともにアルフの影に降り注ぎ、溶かした。

 彼女はお姫さまではない。

 あの輝きをどう表現するかを、アルフは知っている。


「希望です」


 口にすると胸の奥が灯されたみたいに温かくなった。

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