第42話

「分かった、もう良い。後は私が決める」


 疲れたように穆皇后は首をもたげ、溜息を吐く。

 これ以上の会議は負担になる。三人は、深く礼をし、部屋から出ようとした。

 ただ、穆皇后は費褘だけを部屋に留める様に言い、黄皓と董允を侍女に見送らせた。


「如何されましたか?」

 費褘は、どうして残されたのか分からず、少し戸惑っている様子であった。


「そなたの意見を聞いておらん。気兼ねなく申せ」

「王夫人になろうと、張彩様になろうと、私は国政を担い陛下をお支えするだけです。正直なところ、どちらが良いというのは分かりません。二人の話を聞き、ますます分からなくなり申した。ただ……」

「ただ、何じゃ?」

「どちらを選ぼうと、道は険しいでしょう。ならば、陛下を最もよく知る黄皓の意見を取り上げる他ありますまい。王夫人ではとても、陛下をお支え出来ません」

「よく見ておる」


 劉禅は、衰弱しきっていると言って良い。

 人は体に異常をきたさずとも、心の病が極まって死ぬ事もある。心と体は繋がっているのだ。

 先帝の劉備も、夷陵の大敗では死ななかったが、それによって心を痛め、やがて体を崩して亡くなった。

 費褘はまさに、それを案じていたのだ。


 今、劉禅が、心身を崩し倒れるようなことがあれば、有力な後継がいない今、国は大きく乱れてしまうだろう。

 国を保つためには、まず、劉禅を支える事が急務である。世間体など、言っていられる状態では無いのだ。


「張彩を、皇后とさせます。そなたには、民や臣下の疑惑の声を握り潰してもらわねばなりませんね。なにせ、国の長が禁忌を破るのですから」

「細心の注意を払います」

「それと────黄皓を殺してはなりません」


 首を垂れたままの費褘の動きが、ピタリと止まった。

 つまり、殺すつもりだったのだ。

 その理由は、董允が考えていたものと全く同じである。


「それは、何故でしょう」

「あれほど禅を理解した忠臣は他に居ません。今の禅には、黄皓は必要なのです」

「皇太后様の、仰せとあらば」

「しかし、時が来たら……その『時』は、そなたが見極めよ」

「……御意」



 劉禅と張彩の婚儀の件は、全て穆皇后が取り仕切る形で進められた。

 まさに青天の霹靂である決定に、劉禅も張彩も、個々ではあるが猛反発をした。

 人間の倫理的な観念からして、犯してはならない禁忌であるからだ。

 それに、張敬の死からまだ時もそれほど経っていない時に、国家全体での祝賀を催す訳にはいかなかった。不謹慎の極みである。


 しかし穆皇后はそんな二人の反発を、無理やり抑え込んだ。

 流石に、劉備の妻である。劉禅や張彩の前では、常に自決用の短剣を握りしめていたのだ。

 老いた義母の性格を二人はよく知っている。普段は温厚篤実であるのに、いざ覚悟を決めれば、自決など造作も無いと言う風にやってのける勢いの良さがあった。


 こうなってしまえば、無理に口出しするのは不可能であるのだ。

 それでも、婚儀の件は抜きにして、張彩が側に居てくれること自体は、劉禅にはありがたい事であった。


 皇帝とは、常に孤独なのだ。

 生まれた頃より、ずっと。

 友など、一人もいなかった。

 しかし、張敬と張彩は、別である。

 張敬を心から愛し、張彩は心から信頼していた。二人もそれに、身分など関係なく応えてくれた。

 劉禅の心を支えられるのは、幼き頃をよく知る、この二人だけだったのだ。

 そして今、張敬はもう、居なかった。


「彩、何故か、会うのも久しいと感じるな」

「姉様と、劉循様のご葬儀以来です。まだ、二月しか経っておりません」

「そうか、二月か。昨日の事の様にも思えれば、百年も昔の事の様にも思う」

「兄様は随分と、やつれておいでです」

「人の死は、慣れぬ」


 諸葛亮の死から、早十年である。

 あとどれほど、この現実と向き合っていかなければならないのだろうか。

 そう思うと、今すぐにどこかへ逃げ出してしまいたかった。誰も居ない、どこか遠くへ。

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