第17話

「……え」


 誰よりも、張彩が信じられないという顔をしていた。

 それも、頭からもんどりうつ様にして倒れたのだ。

 足をもつらせて転ぶような下手をうつほど、未熟ではないつもりである。


「もう一度やるか?」

「も、勿論っ!今のは無しだっ、納得いかない!!」


 再び立ち上がる張彩。今度は突進を仕掛けず、棒を構えたままジリジリと間合いに近づく。


 劉禅は半歩足を近づけた。

 張彩の棒が素早く動き、劉禅の腰を目掛けて横に凪ぐ。

 しかし劉禅はまた半歩下がってそれを躱し、棒を握る手を叩く。張彩は思わず棒を落とした。


 それから何度やっても、結果は同じであった。

 手を赤く腫らし、張彩は地に伏せて泣いた。劉禅も、既に息が絶え絶えで、衣服が体に張り付くほどの汗をかいている。


「何でっ、どうしてですか、兄様。何で私は、勝てないのですかっ」

「……母上に、身を守る程度の、武芸は、教わった。あの、孫母上だ。まだ、体は忘れていなかった、みたいだな」


 張彩は武芸を身につけているものの、そのどれもが力任せのものであった。

 いざ戦場ではその方が良いのだろうが、この様な一対一では、力ではなく技の方が優れた効果を発揮する。

 だからこそ、劉禅は何とか勝つ事が出来たのだ。


 その、劉禅に武芸を仕込んだのが、孫尚香、あの呉の皇帝「孫権」の妹であった。


 劉禅の生みの親である甘夫人が死去した際、同盟を結んでいた劉家と孫家で縁組をした。

 所謂、政略婚というものである。

 当時、劉備は五十近くの年齢で、孫尚香はまだ、二十に満たない若い少女であった。孫家との仲が険悪になるまでの僅か四年の間のみ、劉禅の母であった人である。まだ劉禅は二歳から五歳くらいの幼少期であった。


 孫夫人はこの上なく武芸を好み、遊侠な性格であった為、波長の合う父との仲は非常に良好であった。


 しかし、端から見ればこれほど怖い存在は無い。主君の側に、信用ならない国から嫁いできた、武具に身を包んだ若い女が居るのだ。いつでも劉備を殺せる、そんな状態であった。

 かつて諸葛亮は、魏よりの侵攻と、孫夫人の振る舞いは、同様に国家の危機となり得る、とまで危ぶんだほどである。

 現に宦官でもない、劉備の腹心の武将である趙雲将軍を、夫人と劉備の護衛に当てるという異例の事態まで起きていた。


 劉禅は、そんな武芸好みの母に幼少期を育てられる。

 その間に、身を守る程度の武芸は、みっちり仕込まれたと言って良い。


 確かに厳しく苦しい練習の日々であったが、劉禅は母が好きであった。明るく、溌溂としていて、劉禅を鍛えている間も常に慈愛に溢れる母が好きであった。

 これが劉禅の初恋と言ってもいいだろう。


 孫夫人と別れなければならない際も、泣きながら孫夫人にしがみついて離れようとせず、無理やりに趙雲将軍が引き剥がした。孫夫人も劉禅を大いに叱りながら、泣いていた。今でもその時の事だけ、よく思い出す。


「負けを、認めるな?」

 劉禅は問いかける。それでも張彩は首を縦には振らなかった。

「もっと、もっと強くなりたい……兄様と姉様を守れるくらいに、強く、私は強くなりたい!」


 張彩がまだ本当に幼かった頃に、張飛は配下に暗殺された。


 首の無い父の遺体を最初に見つけたのが、そんな強い父が大好きな、幼い張彩であったのだ。

 優しかった母も、呉より返還された父の首を見て、やがて病を得て亡くなった。


 もう、誰にも死んでほしくなかった。特に、自分の親代わりとなってくれた劉禅と張敬には、少したりとも傷ついてほしくないと。


 だからこそ、武芸に励むようになっていったのだった。

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