第36話
明け方、蜀軍は河の対岸に陣を敷いていた。
鄧艾も三千の兵を対岸に出す。
太陽が地平線からその姿を完全に現すと同時に、蜀軍は一斉に河を渡り始めた。
ざっと見た限りでは、三万はいるだろう。
河はさして深くはなく、立ったままでも顔を出す事は出来る。
幅は数百メートル、深さを考えれば、それほど対岸への道は難しいものではない。
鄧艾の合図で、弓矢が一斉に放たれる。
しかし蜀軍は盾を頭上に構えて、その弓矢をことごとく防いだ。
周到で、統率の取れた、圧力を感じさせる進軍。恐らく指揮を取っているのは、廖化であろう。
蜀軍の先鋒が、被害も少なく、河を渡り切る。
その瞬間に、鄧艾は右手を挙げた。
人に埋め尽くされほとんどの兵が気づいていなかったが、水面はやけに光を跳ね返し、透明の中に褐色が含まれている。
油である。
火矢が数本投じられた。
一気に河が燃え盛る。
水が燃えたのだ。
蜀軍はあっという間に混乱し、引き返す兵は背に矢を浴び、逆に向かってくる兵は再び火の河に突き落とされた。
ただそれでも、訓練された兵である。
咄嗟に水の中に飛び込み、再び自軍まで多くの兵が戻っていった。
派手な計略の割には、あまり蜀軍の損害は多くない。
恐らくこの兵の指揮が姜維であれば、もう少し被害は大きかったはずだ。
経験豊富な廖化には、奇策があまり通じない。
燃える川を見て、廖化は土嚢を積み始めた。
時間は多少かかるが、これで火にも水にも困らず河を渡る事が出来る。
「戻る」
鄧艾はそう呟き、馬首を翻す。
兵もまた矢を放ちながら、じりじりと引き返した。
白水には実は、本陣と呼ばれる拠点は無かった。正確に言えば、直前になって打ち壊したのである。
その代わりに複数の小さな陣が丘や茂みに隠されていた。
戦況に応じて鄧艾が何れかの陣に拠り、全体の指揮を行うのである。
蜀軍もこれには戸惑った、どこを攻めれば良いのか分からない状況なのだ。
本陣があった場所まで押し寄せれば、そこは無人の荒れ地と化しており、何一つ残っていない。
そこに、数百程度の兵が絶えず奇襲を仕掛け、蜀軍の勢力をじりじりと削っていく。
本来ならばここで兵は敵の煩わしさに怒りを覚え、奇襲を掛けてくる数百の小隊を数千の兵で追って来たりする。
そこを罠に嵌めて討ち取れば、労せずに兵力を減らしていくことが出来る。鄧艾の狙いもそこにある。
しかし、やはり廖化であった。
決して慌てる事無く、本陣のあった場所で堅固な方陣を組み、陣立てを始めたのだ。
敵の総数も分からないうちに、敵中で陣立てを行うなど、大胆不敵と言えた。
確かに魏軍は、昨晩、その大半を涼州へ向けている。
廖化の判断は、誤っているどころか、魏軍からすれば致命的な一手となり得るものであった。
「将軍、あれを……」
副官の指の先を、廖化は見つめる。
不可解な事に、地面からもくもくと煙が立っていた。気づけば、自分の足元でも何かが燻ぶっている。
硫黄の、臭いである。
この地の土は、表面は細かい砂利となっており、その下に湿った土がある。
草木はそこに根を張り、砂利を押しのけて地上に顔を出すので、どれもがひょろ長かった。
鄧艾はその土を見て、本陣のあったこの場所で、砂利に火薬と硫黄を予め混ぜておいたのだ。
地面を覆う様に長草が茂っている為、よほど注視しない限りは、決して気づかれない細工である。
土は湿っているので、決して火事にはならず、煙が燻ぶるだけである。
しかし、この煙が厄介なのだ。
火事が起きた際、意外と火で焼け死ぬ者は少ない。焼かれる前に皆、煙を吸って死んでいくからだ。
特に硫黄の煙は毒である。廖化は急いで兵士に煙を吸わない様にさせ、退却の命を出した。
太鼓と、銅鑼が鳴る。
煙を抜けた瞬間に、突如として騎馬隊が現れた。
先頭は、鄧艾。
僅か五百の、騎馬隊である。
しかしこの騎馬隊は廖化軍に大きな衝撃を与えた。
先日の戦で前に進む事だけに力を注いでいた蜀軍の脇腹目掛けて、一気に突っ込んできたのが、この騎馬隊であった。
特に廖化軍は、この騎馬隊に散々に掻き回されてしまっている。
「陣を決して崩すな!このまま本陣まで退却せよ!」
この様な士気では戦どころではなかった。
早く本陣へと戻りたいという兵士達の気持ちを懸命に抑え込み、堅固な陣を組んだまま、蜀軍はじりじりと後退した。
流石に鄧艾の騎馬隊も深くまで攻め入ることは出来ずに押し返された。
度々現れては、方陣を削っていく。
兵達はもはや、早く河を渡る事のみしか考えられない程の厭戦気分となってしまっていた。
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