第49話

 蔡甘は王平に深々と一礼をすると、胸を張って即座に幕舎を飛び出した。

 これで、誰も撤退を口に出すことは無い。

 はっきりと、自分が死と隣り合わせに生きていることを、誰もが理解した。


 将来を見込んで、自ら育て上げた将であったが、王平はあえてその蔡甘を殺すことを選んだ。

 そうでもしないと、漢中は守れない。しかし、この死で、漢中は絶対に破られない要塞へ変化したのだ。


「胡済」

「ここに」

「お前の考える、全体的な戦略を申してみよ」

「はっ」


 胡済は前に進み出ると、漢中及びその周辺が克明に描かれた地図に歩み寄る。


「現実問題、いくら漢中が堅固とはいえ、兵力差があまりにも開いています。そこで、要所であるこの漢中城を放棄。その背後にある漢城・楽城は互いに連携も出来るので寡兵でも守りやすいかと。この二城を守って援軍を待ち、漢中城および、漢中の全域を取り戻すのが最善の策かと」


「なるほど……だが、一時的とはいえ、漢中城を取られるのはまずい。未だ漢中の民は避難しておらず、農作もよく実ったままだ。魏軍にそれを奪われれば、兵糧の補填とされてしまうだろう」


 大軍の最も弱点となるものは、何といっても兵糧である。

 兵糧が少なくなれば、どんなに優勢でも、軍は退却せざるを得ない。

 ただ、漢中に入られてしまえば、その弱点を突けなくなってしまう。


「されど、前に出て防衛を行い兵を損なえば、漢中を保つのは難しいかと。戦線を成都の手前である『剣閣』にまで後退せざるを得ません」

「いや、漢中はそれほど脆くはない。今こそ『重門』の真価を問う時だ」


 かつてこの漢中は、呉懿が治めるよりも前に、魏延という将軍が治めていた。

 先帝の劉備から直々に抜擢を受けた名将であり、五虎将軍と称された蜀を代表する五人の将軍、彼らの亡き蜀軍を一人で支えた、勇猛果敢な大将軍である。


 戦の上手い将軍であったが、漢中を軍事拠点として作り上げる程の、高い統治手腕も持っていた。

 その代表ともいえるのが「重門」と呼ばれる、決して敵を漢中に入れない様に考案された防衛方法である。

 漢中は益州への出入り口であり、その周辺を険しき山岳に囲まれている。

 この山々に幾重もの罠や砦を築き、強固な防衛線としたのだ。


「興勢山を、決戦の地とする。その命、この戦で失うと心得よ」

 王平は剣を抜き、高らかに宣言した。



 蒋琬の危篤に伴い、成都からフ城へと駆けつけたばかりであったが、その後すぐに魏軍が蜀討伐の軍を発足。

 主力軍を直ちに各地から終結させ、精鋭三万を連れて、姜維はフ城を飛び出した。

 危篤の蒋琬に代わって、フ城一帯の統治は陳祇に預けている。

 姜維の唯一の親友であり、政務に関して言えば、陳祇に任せていれば安心であった。


「昼夜を問わず急げば、予定より一日早く漢中へ到達します」

「いや、戦の前だ、無理はしない。予定の日時丁度に漢中へ着くようにする」

「しかし、王平将軍の守備兵は二万、魏軍は十五万。急いだ方がよろしいのでは」


 顔に焦りの色が浮かんでいるのは、校尉の蒋斌である。

 最近はいつも近くに蒋斌を付けていた。

 将来を有望視しているというのもあるが、近頃はどこか生き急いでいる振る舞いが多く、危なっかしいからというのが大きい。


 というのも、同僚である傅僉が、誰よりも早く将軍へと昇進したのである。

 先の北伐での功績は、見事という他無い大活躍であった。

 姜維旗下の騎馬隊の先頭を駆けて、陳泰の軍を大きく切り崩した。

 また、鄧艾の軍に断ち割られた廖化軍の救援に逸早く駆けつけたのも、傅僉だった。


 この成長ぶりは姜維すら予想していない所であり、当の本人ですら、無我夢中で全く覚えていないというのだ。

 その勇猛さは極めて非凡であった。戦で無心になる事を掴んだ瞬間から、その才覚が一気に飛躍したといえる。


 さらにその人間性も謙虚で人当たりが良く、兵からの信頼も厚い。将軍への昇格も、誰も反対する者は居なかった。

 少し前まではただの兵隊長であった青年が、一気に将軍まで駆け上がった。

 最も将来を渇望されていた蒋斌が、誰よりも焦りを覚えたのも無理はない話である。


「王平将軍が守ると言ったのだ。ならば、守れる」

 不安気な蒋斌をよそに、姜維はゆらゆらと馬に揺られていた。

 これから戦に出るとは思えない落ち着き様である。

 まだ、少し離れた街へ出かけると言った方がしっくりくるだろう。


「あれは、将軍、早馬で御座います」

 蒋斌の指の先、柳起の配下の者であった。


「物見で御座いますっ」

「どうした」

「蔡甘将軍が千の兵を率いて魏軍の正面より突撃。郭淮軍と七度も激戦を繰り返した末、討死なされました」

「被害は」

「全滅。一人も、生きて帰った者は御座いません」

「王平将軍は、どうなされている」

「全軍にその戦況を克明に伝えました。漢中守備軍の士気は、魏軍十五万を凌ぐほどです」

「分かった。何かあればすぐに伝えよ」

「はっ」


 確か蔡甘は、王平自ら育て上げていた、勇猛な若き将軍であったはずである。

 それを、自ら手放した。

 どこまでも軍人気質な王平らしい、冷酷な判断である。


 しかし、この蔡甘の死は大きい。

 間違いなく勝てる。

 王平はこの戦で、大いに魏軍を叩くつもりである事が分かった。

 曹爽の首を取る。この一戦は、そう言った意味合いが込められていると言って良い。


「傅僉を呼べ」


 旗下の一人に命じる。

 軍の後方より、一層精悍な体格となった傅僉が駆け寄ってきた。

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