第14話
公孫淵を討ち、後顧の憂いの無くなった魏は、蜀、もしくは呉に対しての攻勢をすぐに強めるとばかり思っていたが、情勢は固着が続いていた。
国境沿いは依然として小競り合いがあるものの、大きな戦になるほどの緊迫感は無い。蜀と呉の同盟も、魏が攻勢に出ると踏んだうえでの戦略を話し合っていただけに、肩透かしを食らったような気分であった。
「また、曹叡の気まぐれが出たのだろうか」
劉禅は費褘の報告による戦況を分析しながら、ぼそりとそう呟く。
魏の現皇帝、曹叡。名君と暗君を表裏に併せ持った様な君主であった。諸葛亮が北伐を繰り返していた頃は、自ら最前線の長安にまで出向いて総指揮を執り、戦の天才であった祖父「曹操」譲りの軍才を如何なく発揮した。あの司馬懿の真価を見抜き、諸葛亮に当たらせたのも曹叡である。
更には、蜀への対応で手薄になっていた南方に呉が侵攻してきた際も、その戦略を即座に見抜き、防衛に当たっている将に指示を与え、見事撃退させたこともあった。
しかし目前に脅威が迫っていないときは、まるで別人のように暗愚になるのも曹叡の特徴である。政務の一切を放棄し、宮殿では遊興に溺れ、国庫が枯渇する程に宮殿を作り始めたこともある。
その曹叡が、蜀や呉に対しての攻勢を「面倒だ」と感じた。それならある程度、納得は出来るのだ。
現に、諸葛亮が死んだことを知ると、曹叡はまるで自分が天下を統一したかのように、前に増して遊興に溺れ耽っていた。
「いえ、陛下。魏帝は気分に波こそありますが、戦時における判断は一度も誤ったことはございません。公孫淵の乱をあれほどの速さで抑えたのにもかかわらず、そのまま内を固めるのは、あまり良い戦略とは申せないでしょう」
「確かに、珍しい失策ではある。公孫淵の乱の抑え方も目を見張るものがあった、遊興に溺れきっているという訳でもなさそうだ」
「何か、戦略を断念せざるを得ない変事が起きたと、そう考えることも出来ましょう」
「変事?」
「こればかりは何とも申せませぬ。あくまで私の、個人的な推測に過ぎません故」
漢中には続々と兵が集結していた。それでも、司馬懿は出てこない。それどころか長安に兵を終結させている気配すらなかった。
一人、司馬懿の側近である文官が郭淮の下に送られ、副将に就いた。軍事での知らせでは、本当にその程度である。
「郭淮の副将に就いた者の名は、誰であったろうか。忘れてしまった」
「名を『鄧艾(とうがい)』と申します。長く司馬懿の側で軍政の補佐をしていた者で、近年、淮河での運河整備を主導し、呉方面への水路の拡張や屯田範囲の拡大など、内政において目覚ましい功績を挙げております」
「されど、軍事における功績は聞いたことが無い」
「はい、常に軍政を行っており、直接兵を率いたという話は聞いておりません」
ならばそれほど警戒を抱かなくても良いのかと、少し安堵した。
攻勢に出るというよりは、明らかに防備を固めようとした人事だ。
今、その魏の内部において、費褘の予想と限りなく近い、そんな出来事が確かに起きていた。
魏帝の曹叡は、重病に臥せっていたのだ。そして自らの死後を案じ、司馬懿と、皇族で最も力を持つ曹爽に、息子の「曹芳(そうほう)」の後見人を頼んでいる。
まだ三十を過ぎたばかりで、劉禅とさほど年齢も変わらない。死を迎えるには、早すぎる歳であった。
「北伐軍の具合はどうであろう」
「蒋琬殿と、将軍らの間で、戦略の計画にずれが生じています。姜維殿は、廖化将軍と共に魏との国境で小競り合いを毎日のように繰り返しているとか」
「戦略に相違点があるのか」
「将軍達が軍議によって立てた戦略は、祁山を拠点として防備が手薄な雍州の西方を切り取っていく領土戦でした。しかし、蒋琬殿が立てたのは、漢水の流れを下って一気に東に進み、荊州の上庸を奪おうとするものです。確かに上庸を奪えば、蜀は長安と洛陽という、魏の主要都市を両方脅かすことが可能になります」
しかし。そう言って費褘は顔を曇らせる。
漢水。それは、漢中に上流を持ち、長江へと合流する大河である。ここを下れば、魏の擁する荊州北部の上庸へとつながっていた。
確かに、上庸を奪うことが叶えば、魏は軍事拠点の長安、そして首都の洛陽を同時に脅かされる事となる。恐らく蒋琬はそれに着目したのだろう。
それでも将軍らからの反対が相次いだのは、三つの理由がある。
一つは、上流から下流へかけて船を使い進軍するというのは、撤退が非常に困難になりかねないこと。もし撤退する際は、流れを登っていかなければならず、これでは退路を断たれているのと同じなのである。
二つ。呉の協力が無いと、そもそも成立し得ない作戦であること。上庸の近くには、荊州北部の要でもある襄陽という城がある。この城から抵抗を受ければ、蜀軍は上庸を奪う事が極めて困難なのだ。だからこそ、呉軍に襄陽へ圧力をかけてもらわないとならない。ただ、今までの外交態度からでも分かる通り、呉は天下への志が無く、魏か蜀の足をすくおうと絶えず狙っている。そのような国の力を頼ることが、主戦略になるはずもない。
「そして三つめが、蒋琬殿の病です」
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