第51話
「傅僉、姜将軍の命により参上致しました」
「兵を三千与える。山岳戦に秀でた精鋭を編成せよ。急がずとも良いが、決して魏軍に見つからぬよう背後へ回り込め。運び込まれる兵糧を奪い、奪えない時は焼くのだ」
「御意」
「ただし、三、四日に一度の間隔で良い。全てを奪おうとはするな、全体の二割で良い。命を違えれば処罰する」
少し不思議そうな顔を浮かべていたが、傅僉は承諾し、直ちに兵の編成の為駆け出して行った。
「蒋斌、意味は分かったか?」
「はい」
「言ってみろ」
「全ての輜重を奪えば、魏軍は決死の覚悟で攻めるか、退くかの二択となります。もし攻め込まれれば、漢中は危ういでしょう。しかし、全体の二割なら退却する程の損害でもない為、魏軍は迷って時を浪費し、興勢山を攻めあぐねている間に消耗していきます。将軍は、それを望んでおられるのではないですか」
こういった戦略眼は、やはり蒋斌は他の武将より頭一つ抜けている。
姜維が一を言えば、その十を理解した。先の解釈も、全て正解である。
あとはどれほど「死」の覚悟を積めるか。
ただ、父「蒋琬」の偉大さもあり、自らの官位に蒋斌は野心を抱いている。
その野心が、死を遠ざけ、戦から自分を逃がしている。そこが、傅僉との大きな違いであろう。
戦場における傅僉は、自らの死を厭わず、前に進む。
不思議なことに、生きたいと願う者ほど早く死に、死を覚悟した者が生き残る、それが戦場であった。
「蒋斌、お前にも命を出す」
「はっ」
「涼州兵の十名を付ける。直ちに涼州へ急行し、豪族らの不安を煽れ。煽るだけで、決起までは促さなくて良い」
「なっ……私も戦場に出させてください」
「お前くらいなものだ、平気で私に反抗するのは。はぁ、命令がきけぬというなら帰れ。父の側に居た方が良い」
実際、この戦にも同行させたくはなかったのだ。
それでも同行させたのは、蒋琬の強い希望からである。蒋斌も、覚悟を決めているようだった。
しかし、それでも後悔は残る。
蒋琬は今や、いつ死んでしまうかも分からない病状であり、やはり蒋斌は側に居た方が良いとも思う。
強く命令する事が出来ないのは、自分が親を捨てて蜀へ降った経験があるからである。
数年前より、母との年に一度の文通も途絶えた。恐らく、もう死んでしまったのだろう。
「今は良いかもしれん。それでも年を経るにつれ、後悔が増す。蒋琬殿は偉大な方だ。亡くなってから悼んだとて、遅いぞ」
「父上から幼き頃より、常々言われていることが御座います。いつか、蒋琬の子ではなく、蒋斌として名を残せと」
「ならば、命を聞け。お前は軍人だ、使命を果たす事だけを考えろ。常にその命令の意図を汲み取るべきだが、違える事があってはならない。それとも、この姜維の指示が、この戦の為にならないとでも言うか?」
「……申し訳ございませんでした。直ちに涼州へ向かいます」
柳起の配下を十名つけて、蒋斌を送った。
豪族の不安を煽るには、理論を組み立てるのが上手く、真っすぐに話す蒋斌の様な人材が最適であった。
決起は促さないで良いが、不安を煽り、郭淮の居ない今のうちに、涼州の民の人心を魏より離れさせておくべき。
以降の北伐では、必ずこの一手が効いてくる。
郭淮不在の間、涼州と雍州を統括するのは、あの陳泰と聞いている。
鄧艾は再び洛陽へ戻り、司馬懿の下へ収まったとか。
陳泰に、統治能力がないとは言わない。しかし、郭淮と比べれば差は歴然なのだ。
そこに揺さぶりをかけておきたかった。
これで、陳泰の実力も計れるだろう。
重門は、予想以上の効果を発揮したと言って良い。
魏軍の大軍が押し寄せたところで、興勢山の防衛線はびくともせず、容易くその攻勢を跳ね除けた。
元々、漢中は複雑で要害堅固な山岳に囲まれており、これ以上に守りに適した地もないであろうと言われていた。
一昔前に、群雄が割拠した戦乱の時代の最中でも、ここ漢中は「五斗米道」という宗教集団が立てこもり、長い間独立を保っていたのだ。
魏の太祖にして戦の天才であった「曹操」も、一度、大軍で漢中を押し包んだが、この複雑な山岳の地形に手こずり、五斗米道の少数の軍によって撤退させられたことがある。
そんな漢中の地を、魏延がより堅固な軍事拠点と成し、今は、守りの名手である王平が防衛の指揮をしている。
いくら十五万の兵を率いていても、曹爽に抜けるはずがなかった。
ふと、司馬懿の顔が頭に浮かぶ。
死んだ魚の様に濁った眼と、気味が悪い程に青白い肌が、酷く癇に障るのだ。
昔はよく手を取り合って天下を論じる程に、近しい関係であった。
しかし、今の立場が、曹爽の運命を狂わせた。
どう考えても、撤退すべきである。
兵糧は正体不明の、相当な手練れである山賊に度々奪われた。
涼州でも、小さな豪族達が不穏な動きを見せていると聞く。
しかし、今退けば、間違いなく全ての権威が司馬懿に靡くであろう。
そうなればもう、曹爽の力で奪回するのは極めて難しい。
皇室である曹氏の命運を、司馬氏が握ることになるのだ。
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