第53話

 流石に全体をよく見る郭淮らしい判断であり、政治的なバランスを保っての進言でもあった。

 自分が司馬氏派の人間という事もあり、この撤退の進言は当然、二人には分かって貰えそうに無い。


 だが、どうしても撤退しなければならないのだ。

 ここで魏軍が敗北する様な事があれば、間違いなく雍・涼州の二つは一気に落ちる。

 長安も間違いなく蜀の手に渡るであろう。

 その瞬間を呉が見逃すはずもない。

 そうなれば魏は北へ北へと領地を追いやられる。そのような窮地を、幼き曹芳では立て直せない。


 つまり、魏が滅ぶのだ。今は曹氏や司馬氏と言っている暇はない。

 だからこそ、自らが決して司馬氏側の人間として発言をしているわけでは無い事を、曹氏派の急先鋒である夏侯覇に前軍の指揮権を委ねる事で示した。

 今や、郭淮を生かすも殺すも、曹爽と夏侯玄の手の内である。


「だが、先ほどお前は、全軍で攻めれば勝てると申しただろう」

「興勢山を抜けると申したまでです」

「最終の防衛線だ、興勢山を抜ければ漢中も落とせるのではないのか」

「落とせましょう」

「ならば何故退くのだ」

「我が軍の後方で度々兵糧を奪っているのは、山賊ではございません。山岳戦に長けた蜀軍です」


 確信は無いが、郭淮はあえてそう言い切った。

 勿論、曹爽らの顔には驚きと共に、恐ろしさが滲んでいる。


「しかし、蜀軍であれば何故、糧道を断たぬ。奪われているのは二割にも満たないぞ」

「それは……数が少ない為か、こちらの糧道を詳しく把握できてない為か、身元をこちらに割らせない為か。しかし、二割に満たないといえど、奪われていることには変わりありません」


 つまり、いつでも蜀軍はこちらの糧道を断てるという事。

 大軍を率いている以上、糧道は生命線である。

 それに、蜀までの道のりは極めて険しく、引き返すのすら容易ではない。

 撤退するにしても犠牲を覚悟しなければならず、敵が背後に潜んでいたとすれば、その損害は極めて大きい。


「だが、今は農作の刈り入れ時だ。漢中にも蓄えは多いだろう」

「しかし、王平が、姜維が、それを見逃すでしょうか。全てを焼き払われてしまえば、もはや我らは漢中にて袋の鼠です」


 焦土作戦。敵に領土や物資を奪われるくらいならそれを焼き払い、敵を陣地深くまで誘い込む。

 最も効果的であり、最も残忍ともいえる作戦であった。

 戦の為だけに、民の暮らしの全てを焼き払うのだ。

 しかし、これ以上に無い程、戦況においては有利となる作戦である。


「……いや、退かん。このまま攻めるぞ」


 汗を滲ませ、絞り切る様に、曹爽は告げる。

 これには郭淮も、そして夏侯玄ですら言葉を失った。


「なっ、あり得ませぬ!」

「焦土作戦なぞ、あの劉禅が許すわけない。劉禅が許さなければ、王平も、姜維も動かない。ならば一気に攻め立てる方が良い」

「成都からの援軍も向かっております。疲労困憊の我らに漢中は保てませんっ」

「郭淮!!」


 普段の冷徹な曹爽からは、予想もつかない程の怒鳴り声だった。

 郭淮は慌てて額を地に付ける。夏侯玄もまた、頭を下げた。


「前線の士気はそのまま夏侯覇に任せる。お前は後方で兵糧の調達を指揮せよ」

「仰せとあらば、十日の内に我らが涼・雍州軍だけで、必ずや防衛線を破ってご覧に入れます!どうか、私に先鋒をお任せ下され!」

「ならん、決めたことだ。もう兵糧を奪われるな。肝に銘じよ」


「……御意」

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そして、夢は終わる。 久保カズヤ@試験に出る三国志 @bokukubo_0123

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