第34話

 伏兵を置いていたのは、ほとんど偶然と言って良かった。

 戦は常に状況が動く為に、自由に独立して動く精鋭揃いの騎馬隊を、用心の為組んでいた方が良いと思っていたに過ぎない。


 恐ろしい戦術だった。いや、あれはもう戦術と呼んで良いのかも分からない。


 全軍がまるで一頭の獣の様に動いていた。

 両翼の六万を餌にして、こちらの本陣が前に出た瞬間、その喉元を喰い千切らんと牙を剥く。


 思い返すだけでも身の毛がよだつ様な瞬間であった。

 独立の騎馬隊を後方に配置していなければ、陳泰の獅子奮迅の働きが無ければ、軍が崩壊するだけでは済まなかった。

 恐らく、一気に長安まで奪われていただろう。

 勿論その時は、自分の首がこの胴体と繋がってるはずはなかった。


 魏軍が撤退先に選んだのは、白水という地である。

 蜀軍とは河を挟んで対陣し、整備こそされていないが、守りに適した拠点もいくつか点在していた。

 ただ、ここは蜀軍と涼州反乱軍を結ぶ地点であり、二日後の夕刻には前後から挟撃されてしまう恐れがある。

 そうなれば絶対に白水を守り抜くことは出来ない。

 後詰が到着するのはどれほど急いでも三日後になる、これでは間に合わない。


 陳泰が、到着した。

 全身に大小の傷を負い、鎧も既に使い物にならない程ボロボロである。

 それなのに麻布を巻くだけの軽い処置を施しているのみであり、郭淮が治療を受ける様に声を荒げたが、危機迫る状態で軍議を欠席するわけにはいかないと、強情に言い張った。


「鄧艾将軍、貴殿の助けが無ければ、私は死んでいた」

「あ、あれ、ぐ、あれは、偶然、偶然です」


 謝辞を受けている側なのに、鄧艾はその大きな体を深々と折る。

 謙遜にしてもあまりに表現が大きすぎるが、陳泰はさして気にする様子でもなかった。

 郭淮を上座に、左右に陳泰と鄧艾が立ち、王経ら諸将が並んだ。


「今の我が軍で戦力として数えられるのは、七万程である。およそ、三万の損害を被った。とりわけ被害が大きかったのは、私と陳泰の率いていた中央軍の精鋭四万。その半数を、戦力として失った。眼前の蜀軍の兵力は、およそ五万程であろう。されど、背後より涼州反乱軍の七万が迫っている。後詰が到着するのは急いでも三日後の正午、涼州軍は二日の後に来るだろう」


 戦場の全体を冷静に見渡し、郭淮は淡々と事実だけを述べた。

 局地戦ではなく、全体の戦略を練ることに関しては、郭淮の右に出る者は居ないだろう。

 この短時間で正確な数値を割り出す郭淮の言葉を聞き、鄧艾は驚いた。

 諸将は皆、表情が暗く、弱音こそ吐かないが絶望の空気に飲まれている。


「王経よ、何か策はあるか?」

 郭淮に名を呼ばれたのは、今回、右翼の指揮を担当していた王経である。


 鄧艾と同じく農民の出身で、呉方面の戦で功績を残してきた叩き上げの将軍であった。

 小柄でありながら、全身が筋肉に覆われてる様な体をしている。

 相手が嫌になるほどに、粘り強い戦をすると評判であった。


「大変、申し上げにくいのですが」

「構わない」

「長安近辺の防衛線付近まで南下し、後詰と合流。敵が攻めてくるならこれを防ぎ、機を見て雍州西部に圧力をかけ、奪還を行うが良いかと」

「しかしそれは、雍州西部、涼州を蜀軍に明け渡すという事になる」

「長安さえ押さえておけば奪還は十分に可能です。このまま戦に臨み長安すら失うよりは、この方が良いと私は判断しました」


 確かに涼州を蜀が手に入れたとしても、漢中と涼州を結ぶ支配地域は極めて細く、維持は難しいだろうと思われる。

 しかし、涼州は豪族の力が強く、独立自尊の気風を重んじ、歴史の中でも長い間独立を保って来た土地である。

 それに、漢中からの牽制もあると考えれば、涼州を奪い返すのは容易な事ではない。

 この土地の統治に骨を砕いて来た郭淮の心境で言えば、勿論、放棄することは避けたかった。

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