第8話
あれから、蜀漢の内政は当初の想定を上回る速度で潤い始めた。
国政の長として大幅な権限が与えられたことで、蒋琬の才能が如何なく発揮されたのだ。
かつて諸葛亮は蒋琬に対して、この様な評価を与えた。小さな地方を治めるには役に立たない無能であるが、治める国土が広ければ広いほど、彼の才能は発揮されるだろう、と。
蜀漢の交通の整備を整え、南蛮の民族の戸籍も詳しく調査したうえで、それぞれの所得に合わせた公平な税を課す。その税率は諸葛亮の定めたものより僅かに軽いものであった為、民は大いに喜び、国政の基盤はより強固なものとなった。
さらに決して私情を国政に持ち込まなかったのも、蒋琬の評価を高めた。こんな話がある。とある一人の文官が、蒋琬やその周囲に向かって「奴など諸葛丞相の足元にも及ばない」と罵ったことがあった。公衆の面前での侮辱に、周囲の者達は皆当然怒ったが、蒋琬だけは何食わぬ顔で「彼は事実を述べただけだ、何の罪になろうか。現に私は、遠く丞相に及ばない」と言って、それ以上取り扱おうともしなかった。
平等。公平。これが、蒋琬の行った国政の主題であると言える。
これらを徹底したことで民からの信頼は集まり、結果として税を軽くしたにもかかわらず、多くの利潤が政府にもたらされたのだ。不明瞭な部分を徹底的に整理することで無駄が省かれたことが、最も大きな要因であろう。
そして蒋琬の幕僚として、軍部の中核を担うようになったのが、まだ若い姜維であった。蒋琬の下は、費褘と姜維という、次世代を担う若き才人によって固められ、これが実に上手く機能したのも大きかった。
来るべき北伐に向けて、姜維を中心とした将校達で日夜軍議が執り行われる。内政は、費褘が主体となって盛り立てる。国内の制度のほとんどは既に諸葛亮によって定められていたこともあり、行政に関して大きな問題が起こることは無かった。
そして、二三八年。
蒋琬は、北伐の軍を起こすことを、劉禅に上奏した。
「まだ、丞相の死より四年しか経っておらん。大将軍の言っていた五年という期間すら、朕は短いものだと感じたぐらいだ」
「既に内政は充実し、兵も十万の規模で編成可能でございます。更に、天下の情勢も動きつつあり、時は今であるかと存じます」
中国の最北。劉禅の父である劉備の生まれ故郷「幽州」にて、魏、呉、蜀、の他に独立の勢力を保ち続けている男が居た。名を「公孫淵」。自らの勢力地に「燕」と国名を定め、また、王を名乗っていた。この男の巧みなところは憎いほどの外交の上手さで、呉と魏の間で両者の機嫌を伺いながら、独立を保ち続けている。しかも呉と魏だけではなく、北方の鮮卑族や、朝鮮民族、東方の島国などの諸外国とも通じていた。
ただ、いつまでもこうした専横を許しておく訳にはいかず、魏は公孫淵に出頭を命令。公孫淵はこれを拒否し、攻めてきた魏将のカン丘険の軍を撃退。この一件で北方の戦況が一気に激化したのである。
「呉は既に公孫淵に援軍を送ることを決定し、鮮卑族もそれに呼応する動きを見せています。そして、鎮圧軍を率いるのがあの司馬懿です。これは、長年丞相の北伐を阻み続けた存在が、我らの前から一人消えたということになります。この機に蜀も兵を挙げれば、魏は三方に敵を抱え、疲弊していく他ありません」
「輔漢将軍、姜維」
「ここに」
「大将軍の言、如何に思う」
「私も、この機に乗ずる他無いと、そう思います」
「後軍師、費褘」
「ここに」
「そなたはどうだ」
「確かに、この機会を逃す手は無いと、私も思います。しかし、北伐軍の要であった呉懿将軍が病に没し、まだそれほどの時も経っておりません。そして、情勢も傾きつつあるとは申せますが、決定的ではありません。出兵するにしても、軍部の編成を固め直す事の方が先決かと」
「朕も、それを危惧しておる。呉懿将軍の逝去は、蜀軍にとって大きな痛手であった。今、漢中は副将であった王平将軍が引き継いではおるが、まずは軍部の再編が急務であろう」
劉禅の意向を聞き、重臣の三人はそれに同調した。ただ、姜維だけが苦い顔をしていたが、軍の立て直しも図らずに北伐を行う事は出来ない。それほどまでに、今の蜀軍にとって、呉懿の存在は大きかった。形で言えば、劉禅の義理の叔父にもあたる人である。
呉懿は漢中で戦線の指揮を執りながら、体調を崩しては回復してというのを何度も繰り返し、最後は急な重病に掛かり没した。実質上の、蜀軍の頂点にある将軍だった。威厳を備え、博愛の精神を持ち、少数の兵で幾度となく大軍を退ける働きをした名将。そんな名将には似合わない、あまりにもあっけない最後であった。
「大将軍蒋琬に、詔を告げる」
蒋琬だけではなく、文官武官が揃って拝礼し、劉禅の言葉を待つ。
「漢中にて、大将軍府の開設を許す。漢中にありて国政を監督し、蜀軍の編成を行った後、魏の変事を待って北伐を敢行せよ。北伐に関する決定権の一切を、大将軍に与える」
「謹んで、お受け致します」
自らの腰に携えている剣を、蒋琬に渡す。
これより、軍事に関する蒋琬の発言は、劉禅の言葉と同じ重みをもつこととなった。
「蒋琬よ、体を労われ。命とは、あまりに儚い。あれほどの名将であった呉懿将軍でさえ、病で泡の様に消えてしまった。朕は、それだけが気がかりなのだ」
「勿体なきお言葉です」
小声で、剣を受け取る蒋琬に、劉禅はそう耳打ちする。
最近の蒋琬の働きぶりに、不安を覚えたのだ。以前の蒋琬ならば、仕事はさっさと終わらせて、宴をやったり、ふらりとどこかへ出かけに行ったりと、とにかく優秀であり自由な人間であった。度々それが問題にもなったが、仕事は出来ているのだから結局、誰も強い文句を言えなかった。
ただ、国政の長となってからは、そんな態度が一変した様に、昼夜を問わず働き、命を削っているとしか思えない程であった。
国を担うという重責は、蒋琬程の人間でも、ここまで追い詰めるものなのだろうかと、そう思えてならない。諸葛亮も、命を削るように働き、その死期を早めてしまった。もう、あのような思いは二度としたくはなかった。
「費褘よ」
「はっ」
「そなたは成都にとどまり、蒋琬の代わりとして国政の実務を担え。それと、姜維」
「ここに」
「北伐における戦略や軍略については、そなたと王平将軍の二人で裁量せよ。蒋琬を補佐するのだ」
「仰せのままに」
まだ若いが、蒋琬に変わって国政を担えるのは、費褘しか居ないのが現実であった。軍政については、老練な王平と姜維を組ませれば、問題は無いと思える。
これでいくらか負担を減らせれば良い。この不安が杞憂であれば良いと、些か顔色の悪い蒋琬を見て、そう願った。
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