第3話


「丞相亡き今、蜀漢はこれより如何せん。誰か、その方針を朕に進言する者は居ないであろうか」


 真っ先に前へ進み出たのは、やはり、蒋琬である。


「申し上げます。この蜀漢は、三国の中でも最も小さく弱き国です。かつて丞相が述べられた通り、このまま座していても滅びを待つのみでございます。だからこそ北伐のみが蜀漢が生き残る道であり、そしてこれは、漢の復興を夢に抱かれた先帝の遺志でもございます。直ちに侵攻とは申しません、未だ出征に耐えられるだけの国力ではございません故。しからば、五年は内政に精力を傾け、国内が固まった後に、北伐を再開するべきかと存じます」


 国力を一大決戦に耐えうるまで回復させ、さらに諸葛亮亡きこの国を固め直す。蒋琬はそれを僅か五年で立て直すと、この文武百官が揃う場で言ってのけた。

 珍しくも、言葉は熱を帯びていた。


 いつもの理論に固められた冷徹な言葉ではなかった。それだけ、蒋琬もこの国に掛けている想いが篤いのだと、初めて気づかされたような気がした。


「私は、その意見に反対に御座います」


 皆が胸を熱くしていたその瞬間に、颯爽と前に出た男が居た。辺りは静まり返り、視線は集中する。それでも前に出てきたその男は、微塵も気にする様子がなく、堂々と胸を張っている。


 費褘。まだ齢は三十になったばかりの、若き文官であった。


「構わん、続けよ」


「はい、しからば。確かに北伐は、この蜀漢が必ず成さねばならぬ事業でございます。しかし、丞相でさえその事業を成すことが叶いませんでした。ならば、その才で大きく劣る我らが北伐を成すことなど更に難しいでしょう。ここは国内を固め、要害に置いて敵を阻み、魏の変事を待つか、丞相を越える程の才を持つ人材の出現を、待つほか御座いますまい。無暗に攻めるのは、敵に利あるのみでございます」


 消極的な意見ではあるが、誰よりも現実を見ていると言えるだろう。

 諸葛亮がこの費褘の才覚を見出したのは、まだ費褘が十を過ぎたばかりの頃であった。


 一度読んだ書物は全て暗唱でき、仕事においても、大人も舌を巻くほどに効率良くこなす。その才能は、誰が見ても明らかに抜きんでていた。

 また、人間性も明るく大らかで、誰であろうと壁を作らずに言葉を交わせる人物でもある。あの楊儀と対等に言葉を交わせたのも、この費褘だけであっただろう。


 諸葛亮の幕僚となる以前は、董允と共に劉禅の側近でもあった為、その人柄を劉禅もよく知っている。


「なるほど、一理ある。しかし、蒋琬の意見も真っ当であった。どちらの意見に利があるであろうか」


 劉禅が意見を求めると、それぞれ文武の官僚らが意見を述べ始めた。

 やはり、蒋琬の方に利があると述べる人間が多く、特に武官は揃って蒋琬の側に立った。戦こそが武将の生きる場所であり、費褘の消極的な国策は、その場所を奪われることの他ならなかったからである。


「これで、決まったな。これより国策は、蒋琬の方針に定める事とする。そして同時に蒋琬には、大将軍、録尚書事の位を与え、安陽亭侯に封じる。文武における一切を取り仕切り、北伐を必ず果たすようにせよ」

「我が身を惜しまずこの微才を尽くし、必ずや皇帝陛下に北伐における勝利をご報告したく存じます」


「良し。更に費褘には、楊儀の穴を埋めるべく、後軍師、そして尚書事の位を授ける。蒋琬を補佐せよ」

「身に余る光栄です。皇帝陛下、万歳、万歳、万々歳」


 文官、武官、揃って皆が平伏する。国策は、定まった。先行きはいまだ見えないが、それでも蒋琬は信頼に足る人物である。自分は、ゆったりと構える器であれば良い。董允より常々言われている教えであった。


 ただ、蒋琬に、丞相の位を与える、とまでは言わなかった。恐らく今後、自分がこの蜀漢の皇帝で居る間は、諸葛亮以外の人物にこの席を設けることは無いだろう。


 虚しく空席のまま、劉禅に最も近く、群臣より上位にある広い椅子。あの椅子に座っていた男の背中が無いだけで、議会があまりにも広く感じられるのは、何故であろうか。




「お疲れさまでした陛下。晩餐の用意は出来て御座いますが」

「あぁ、黄皓(こうこう)。やはり久しぶりの、しかも相父(諸葛亮への敬称)の居ない中の評定は予想以上に疲れた。今は食欲が無いのだ、まぁ、明日の朝には空腹が極まっているだろうな」

「左様でございますか。ならば、食しやすい果物をお届けしましょう。それくらいは食べて下さいませ」

「分かった分かった」

「それでは、また後ほど。ゆっくりとお休みくださいませ」


 髭も生えていない、無邪気に笑う爺さんである。

 皇帝や、皇后の身の回りの世話をするのが、この黄皓の様な「宦官」と呼ばれる身分の者達であった。皇后や宮女達と不貞を成さない為にも、男根が切り取られており、そのせいで宦官は髭が生えない。


 身分としては、最下層の人間であり、いや、人間とも思われていないのが世間での常識である。人として最も大切な事である「子を成す」ことが出来ないのだから、それは人間ではないと、誰しもが普通に思っているのだ。


 ただ、実際にこうして会話も出来る、劉禅にはイマイチその感覚が分からなかった。愛嬌のある爺さんと、むしろ親しみを覚えているといっても良い。


 冠と上着を黄皓へ預け、一人自室へと戻る。

 部屋に入ると、どこか空気が温かい。それに、仄かに甘い香りを漂わせている。

 どこまでも気が利く爺さんだ。そう思いながら奥へ進むと、足元にある広い桶に湯が張られており、数人の侍女が平伏して待っていた。


「お待ちしておりました、陛下」

「敬(けい)よ。その、貴方にそう呼ばれるとむず痒い。いつもと同じにしてくれないか」

「ふふっ、分かりました。禅、これで良いですか?」

「あぁ、ただいま」


 促されるままに劉禅は椅子に腰をかける。


 宮女の二人は布を持って、劉禅の足元を桶に入った湯で流し始めた。そして敬と呼ばれたその女性は、劉禅の上半身の衣服を一枚一枚剥いでゆき、肩から腕にかけて、湯をくぐらせて絞った布で柔らかく擦る。常に戦場に出ていた父と比べて、自分の体付きは貧相である。ただそれでも、敬にだけは恥じることなく身を預ける事が出来た。


 張敬(ちょうけい)、これが彼女の名である。


 歳は、劉禅より二つ上。父親は、劉備の挙兵以来から付き従っていた猛将の張飛(ちょうひ)将軍であり、母親は、魏の名将で皇族の夏侯淵(かこうえん)将軍の姪の夏侯月(かこうげつ)姫である。


 劉備と張飛の仲は深く、義兄弟でもあった為、張敬が劉禅の正室になることは既に赤子の頃より定められていたと言って良い。また、二人も幼少の頃より仲が良く、夫婦となることを当然の様にお互いが思っていた為、何の障害も無く現在は皇帝と皇后という間柄となっていた。


 夏侯一族は容姿が端麗であり、例に漏れず張敬もその母親の血を色濃く引いていた。四肢は長く細く透き通るように白く、背丈は女性らしさを感じさせる様に低い。ただ、その目元と眉は父の面影を残しており、はっきりと力強い意志を伝えてくる。

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