第2話

 諸葛亮の北伐時、内にいて国政を担っていたのが蒋琬であるとすれば、諸葛亮の側で軍政の補佐を行っていたのが楊儀である。

 五丈原にて病没した諸葛亮の棺を守り、全軍を指揮して国へ戻ったのも楊儀であった。


 間違いなく、諸葛亮亡き国家の柱石たりうる人材の一人だった。その積み上げた功績は、蒋琬に勝るとも劣らない。


 徴兵や兵糧の調整、戦時中に軍の隅から隅に至るまで目が届くような、卓越した軍政の能力を持っているのは間違いない。あの諸葛亮の補佐を担っていたのだ、それだけでもその能力の高さが伺える。


 信じられない。そう言いたかったが、その言葉は出なかった。


 楊儀は確かに優秀である。ただ、その性格は一癖も二癖もあった。諸葛亮でさえも、その性質を持て余していたと聞いている。


 まず、人に対する好悪がはっきりし過ぎており、それを隠すことなく、所かまわずに表に出すところがあった。それに、他人の小さな落ち度まで指摘する癖があり、特に将兵との衝突が多かった。


 それほどまでに武官との関係が険悪だったにも関わらず、軍政において常に結果を出し続けている点は、見事と言う他無いのであるが。


「証拠は、あるのか?」

「このところ屋敷で酒に溺れる事が多く、看過できぬ愚痴を多くこぼしているらしいのです。楊儀の屋敷の従者から密告を受けました。間者を送ったところ、確かに看過できぬ言葉もいくつかございました故」

「酔ったうえでの言葉であろう」

「酔ったからこその言葉でもあると申せます。諸葛丞相の跡を継ぐのは自分であると、立場についての不満を多く漏らし、挙句には、魏に走った方が自分は更なる重職に就けるであろう、と」


 確かに、酔ったうえでの言葉であるとはいえ、看過できない言葉であった。


「法に照らせば、即刻、首を斬らねばなるまい」

「私個人といたしましては、賛成に御座います。しかし、楊儀には功績も多い故」

「分かっている、後で董先生へ処罰について聞いてみるが良い。朕はその結果に異論を挟むつもりはない。先生ならば、楊儀の気持ちも汲んだうえで処罰の内容を定める事が出来るであろう」

「御意」


 蒋琬は小さく一礼し、部屋を出た。


 誰しもが、不安の中でくすぶっている。最も分かりやすい性質である楊儀が揺れていた。ただ、その揺らぎは、楊儀だけに留めておきたかった。


 蒋琬もそう思っていただろう、やはり国の為には首を切った方が良いのだ。ただ、そういう政治の在り方を劉禅は好まない。国とは、血が通っているべきなのである。それを甘いと言われれば、それまでであるのも分かっていた。


 蜀は小さく、そして弱い。劉禅は寂しさの中で、それを強く感じた。




 もうすぐ、春が来ようとしている。


 諸葛亮の国葬から、既に二月以上が過ぎていた。こうして文武百官が一堂に集結し、劉禅がそれらを玉座より見下ろすのも、随分久しぶりな事のように思えた。


 最も劉禅に近く、文官の筆頭として一番の上座についているのは、蒋琬であった。


 そして、武官の筆頭の席に座るのは、驃騎将軍の官位を持つ呉班(ごはん)である。劉禅の義母であり、皇太后である穆皇后の一族という名門出身で、諸葛亮の北伐で幾度も功績を重ねている熟練の将軍である。現在は、首都である成都周辺の兵を束ねていた。


 ただ、有力な武官で出席しているのはその呉班くらいで、他の実力ある将軍達は皆、北方や南方にて魏や呉に備えていて欠席していた。やはり諸葛亮の死を好機と思った外国が、国境付近を確かめる様に度々侵しているらしく、気の抜けない状況であるのは間違いない。


 特に呉は、同盟関係を結んでいるのも関わらず、強かにそういった揺さぶりをかけてくる。腹立たしいとしか言いようが無かった。


 久しぶりの文武百官による議会ともあり、まずは最初に、蒋琬と呉班によって近況の報告が行われた。


 呉班の報告では、江州都督として呉方面の守備を任されている鄧芝(とうし)の自らの交渉によって情勢は既に落ち着きを取り戻しており、外交上の問題も既に解消されているとのことである。

 南蛮の異民族も、奮威将軍の馬忠(ばちゅう)、牙門将軍の張嶷(ちょうぎょく)らの慰撫が隅々にまで行き渡り、反乱の兆しは無かった。


 ただやはり、北方の魏方面は予断を許さないような状況らしい。車騎将軍であり穆皇后の兄にあたる呉懿(ごい)将軍が軍事拠点の漢中にて指揮を行っていたが、最近は病を発症し、前線には立てなくなっていた。


 その代わりに安漢将軍である王平(おうへい)が前線にて指揮を行い、魏軍の小隊をことごとく追い払っていたが、どうも切りがないと報告が入っていた。


「呉班将軍、漢中に援軍を送った方が良いだろうか」

「いえ、陛下。前線に立てずとも、呉懿将軍は漢中の統治に注力しておりますので、武具兵糧、そして兵力的にも現時点で不足はありません。さらに王平将軍は守りの名手、多少の揺さぶり如きでは動じませぬ」


 呉懿は名門呉氏一族の現頭首であり、穆皇太后の兄、呉班にとっては従兄にもあたる。軍事や内政、政治において呉懿は非常に優秀であったが、その優秀さと名門の力を恐れた諸葛亮は、彼を高位に就ける事を避けていた。また呉懿も自分の置かれた立場を理解しており、常に前線で指揮を振るう軍人として振る舞っていた。


 そして、呉懿の副将として北方の前線に立つ王平は、諸葛亮仕込みの手堅く慎重な戦術を最も色濃く受け継いでいる将軍であり、守備に関しては抜群の能力を発揮する熟練の軍人である。


 確かにこの二人が漢中を抑えている間は、北方に対して強い危機を感じることは無かった。


「ふむ……しかし、呉懿将軍の病が心配である」

「御心配には及びません。あまり重い病ではないと軍医からも報告を受けております。ただ、往年の頃より老いた身で、当時のように働こうとしたことによる疲労が原因だとか。しばらく休養すれば回復致します」

「丞相に逝かれ、呉懿にまで何かあれば、蜀軍は危うい。朕の従医を送らせよう。しっかり休養するように念を押してくれ」

「お心遣い、痛み入ります」


 武官の報告は以上であった。その他の細かい事に関しては、後に開かれる軍議にて対策が図られることとなっている。


 そして次は、蒋琬である。文官の次席は、空席であった。


「昨日、謀反を企てているという複数の報告を受け、その実を精査した後に、中軍師楊儀の官職の一切を取り上げ、庶民へ降格。更に一族を流罪に処しました」


 本来であれば斬首刑ではあったが、その多大な功績と、楊儀と同じく北伐時の諸葛亮の幕僚でもあった費褘(ひい)の嘆願により、命だけは助けるという処置を施した。国内の混乱をできるだけ抑えたい蒋琬は、あくまでも処刑すべきだと言う意見であったが、結局は劉禅の指示を受けた董允が最終的な判断を下すこととなった。


 後日談となるが、楊儀は後に、劉禅によって自決を求められる。庶民に降格されて流罪となってもなお、楊儀は劉禅へ何度も上奏文を送りつけた。その内容は苛烈で、自分の能力がいかに秀でているか、今の朝廷の中心となっている官僚らがいかに凡愚であるか、そう言ったことが長々と記されているのだ。流石にここまで行くと、もう誰も楊儀を庇うことが出来なくなり、自決を求刑する他なくなったのである。


「楊儀の一件以外は、国内の情勢は極めて落ち着いているといえます。農業や商業、生産に至るまで滞りは無く、今年の秋は例年以上の実りが期待できます。ただ、これまでは内政や外交、軍事に至るまで、あまりに諸葛丞相に頼っておりました。そのあたりの改革を行う事が、今後の急務でありましょう」

「確かに、その通りであるな。それだけに、この一件が悔やまれて仕方ない」

「我ら臣下の、不徳の致すところでございます」

「この非常時でも、法を緩めることは無い。皆も気を引き締める良い機会になったと思おう」


 一極に偏っていた行政の制度を改革する必要がある。それが今の一番の急務であることは間違いない。


 しかし、それを成すにしても、軍事、行政を取りまとめる人間をまず決めなければならない。諸葛亮の遺言、そして今までの功績を見れば、その役割は蒋琬となるのは間違いない。ただ、蜀漢はあくまで文武合わせた議会を設けて物事を決定してきた国家である。


 いくら蒋琬であろうと、議会で否となれば、劉禅もその役割に任じる事を良しとはしなかった。

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