第32話
蜀軍の動きはあまりに迅速であった。
互いに着陣したその日に、総攻撃を仕掛ける準備を始めだしたのだ。
このままでは、日が真上に上るよりも早く、総力戦が始まってしまうだろう。
「少ない兵力だから、決着を焦っているのか……?」
郭淮は蜀軍の陣立てを見て、首を傾げていた。
全ての手の内を晒すように、既に陣形まで整えているのだ。
魏軍はただ横陣を敷いてるだけで、他のどの陣形にも迅速に対応できる準備は整えてある。
しかし蜀軍は左右に広がり、中央の本陣を後方に下げ、鶴翼の陣を敷いていた。
これでは、どうぞ相性の良い陣立てをして下さい、と言わんばかりである。
更に不可解なのがその陣形と、兵力の配分だ。
蜀軍の敷く「鶴翼」と呼ばれる陣は、まるで鶴が翼を広げたように大きく左右に広げた形をしている。
左右から敵を包囲し、殲滅を行う。ただ、あくまでこれは敵より兵力が多い場合に限る。
鶴翼の弱点は、左右に陣形が広がっている為に、敵の一点突破に脆い事にある。
姜維はそれを分かっているのだろうかと、不思議に思ってしまう。
蜀軍の配置されている兵力は、左右に三万ずつ、そして中央に一万。これでは手薄な正面の本陣を攻め放題なのだ。
「郭将軍、ここは一気に叩くべきでしょう」
盛んに息巻いて言い寄ってきたのは、陳泰将軍であった。
父は、魏の名臣であった「陳羣(ちんぐん)」であり、超が付くほどの名門の生まれだが、自ら志願して北方や南方で戦に明け暮れた叩き上げの猛将である。
その戦のセンスは飛び抜けており、自らの欠点を大いに補う存在として、郭淮は傍に陳泰を置き、戦の指揮を取らせていた。
「どうみても、明らかにあれは誘いだろう。姜維は侮りがたい敵だ、用心すべきである」
「いくら誘いであっても、あの陣立ては戦を知る者が敷く陣形ではありません。それに姜維が大軍を率いる任は此度が初めて。功を焦っていてもおかしくは無いかと」
「ふむ……」
こういう時、鄧艾は何と言うだろうか。
鄧艾は今、各部隊の動きや地形を見る為に、右から左へと、陣営を視察して回っている最中であった。
すると、郭淮の疑問をまるで見透かしていた様に、鄧艾からの進言が記された竹簡が届けられた。
「何と、書いておいでですか」
「鄧艾は方陣を敷き、ひたすら守りを固めるべきだと。敵に何か思惑があろうと、後軍の五万が着陣さえすれば、敵は退却するしかなくなる。そこを襲えば大勝は間違いないと、そう書いてある」
方陣は、本隊を四角く囲む、守りの陣形である。
機動力は限りなく少なく、全ての力を守りに注ぐ陣。
しかし、これは少数の兵が大軍に囲まれた際に、大将を最後の最後まで守り抜く為に使うもの。
確かに鄧艾の作戦は必勝の策である。
ただ、少数の敵兵にわざわざ大軍が守りを固める戦をするのは、恥というもの。
郭淮も、陳泰も、その作戦を呑むことは出来なかった。
「陳泰よ、陣形を変えるぞ。左右に三万で鶴翼に、中央を四万で魚鱗にする。これなら、攻守にすぐに転じれる」
「直ちに諸将に命令を飛ばします」
蜀軍の右翼は副将、廖化が率いている。それに対抗する形で、魏軍の左翼を鄧艾に率いさせた。
両翼は互いに三万ずつ。
しかし、中央の蜀軍は一万で、その最後方に姜維が居た。
郭淮と陳泰が率いる四万が、正面からそれに向かい合う。
魏軍中央の陣は、魚の鱗の様に部隊が固まり密集している陣形で、魚鱗と呼ばれている。
攻守に優れ、中心にいくほど兵の厚みが増すのが特徴的である。
銅鑼が鳴り、数十万の兵の雄叫びが大地を揺らす。
最初に動き出したのは、やはり両翼であった。
ぶつかり合いは、両翼とも蜀軍が押し込んだ形となった。
士気はこの上ない程に高い。その勢いに魏軍が圧倒された形である。
ただ、魏軍の兵も精鋭揃いである。
一気に押し込まれることは無く、その場で踏み止まり、じわじわと勢いを盛り返していく。
大きく戦況が動いたのは、魏軍の右翼。
率いているのは、呉方面の防衛で優れた才覚を発揮していた「王経(おうけい)」将軍率いる部隊であった。
対する蜀軍の左翼は、「胡済(こさい)」という諸葛亮の主簿を元々務めていた将軍、そして名将呉懿の孫である「呉喬(ごきょう)」の二人が率いていた。
相手よりも翼を大きく広げる為に、押して押しまくるのが定石であるのに、蜀軍左翼は守備に意識を向けて小さく固まり出したのだ。
王経はそれを見逃さず果敢に押し込み、敵を後退させ始めた。
それを見てか、廖化の右翼もじりじりと後退を始める。
しかしそこは熟練した戦い方で隙が無く、鄧艾もうまく攻め込めないでいた。
「将軍、今が好機です。姜維の首を取りましょうぞ」
「よし、総攻撃だ!」
陳泰の言葉に従い、郭淮は大将旗を振り、太鼓を一斉に叩かせた。
全軍が前進を開始する。怒号は空気を破き、足音は地を揺らす。怒涛の攻撃である。
蜀軍の両翼は耐えきれずに大きく押し込まれた。
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