第45話
「陛下は楚の荘王をご存知でしょうか?」
まるで親が子に諭すが如く、語り掛けるような口調だった。
劉禅もいつの間にか怒りを忘れ、董允の話に耳を傾けている。
実に不思議な光景であった。しかし、本人達にとってこれは当たり前の流れなのだ。
「無論、知っている。春秋五覇の一人で、楚の歴史上、最高の名君と謳われた覇者の名だ」
「左様でございます」
今より八百年程前、春秋戦国時代に生きた、楚という国の王である。
国王になった当初は、好き勝手に遊び、悪政を繰り返していたが、荘王はそれをわざと行ったとされている。
暗君を演じ、本当に信頼のおける優秀な臣下を見抜き、それを見極めた途端、佞臣を退け国政を正し、軍備を拡充し敵国を打ち倒す覇者へと変貌した。
その目覚ましい功績により、春秋戦国時代を象徴する名君の一人として、語り継がれている。
「荘王が、因縁の深き国『栄』を攻めた折の話で御座います」
楚と栄は昔から敵対関係にあり、因縁の深い間柄であった。
また、一大強国である「晋」と戦う時も、この栄は絶えず心腹の病であった為、ここを降さない限り、楚は常に動きを縛られているという状況。
そこで荘王は栄を本格的に叩こうと決意するが、戦争は利己的な一存で決められるものではなく、攻め込んでも周辺諸国に非難されない様な「大義名分」が必要であった。
「荘王の配下に、栄より怨みを抱かれている者が居ました。
荘王はその者に、東北の大国『斉』へ使者として赴いてほしいと頼みました。
ただ、楚から斉へ向かうには、必ず栄を通らねばなりません。
その者は、栄に入ると殺されてしまう恐れが御座いました。
されど荘王はこう答えました『栄の王に挨拶する必要もない。必ず仇は取る』と。
その後、その者は栄に入ると、荘王の指示通りに横暴な振る舞いをした為に殺されてしまいます。
しかし、これで栄を攻める大義名分が出来たのです」
明らかに、劉禅は嫌な顔をしていた。
きっとその者は、栄で恨みを買ってしまい、楚に助けを求めて亡命したのだ。
荘王もそれを諾として、保護をした。
ならば最後まで守ってやるのが、劉禅の考える、人の上に立つ者としての責務である。
それなのにわざわざ栄で無礼を働き、殺されて来いと荘王は命じたのだ。
これでは、人の命は道具に過ぎないではないか。
「その後、楚は栄へ攻め込み、その強力な軍事力でもって栄を降しました。こうして楚は最も強き国として諸国に覇を唱え、荘王もまた覇者として歴史に名を刻みました」
「荘王の進むは覇道である。されど朕は、覇ではなく仁でもって治世を敷く、帝道を進むと決めている。人の命は、道具では無いのだ。幼き頃よりそれを教えてくれたのは、相父と董先生ではないか」
国とは、人である。
諸葛亮の静かな教えが、今も耳に残っている。
その真意こそ未だ掴めていないが、自分の思う帝道を歩んできたつもりである。
「はい、私も、丞相も、陛下には帝道をお勧めしました。覇道は、人が死に過ぎる」
「ならば、何故朕に覇道を説くのだ」
「いえ、私が此度、陛下に説いたのは覇道ではございません。皇帝とはどのような人間なのか、ということです」
董允の言葉に不可解な表情を浮かべていたのは劉禅だけではなく、周囲の者達も含めて、全員がそうであった。
ただ一人、一度も席を立つことなく静かに盃を傾けていた費褘のみが、涼やかな顔のままである。
「有体に申せば、王とは、皇帝とは────人非ざる存在です」
むしろ、人であってはならない。董允はそう、言葉を付け加えた。
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